まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

酒を温めて「鬱」を医す  08/9再

2022-04-07 07:04:36 | Weblog

Yamauchi Tatuo


行きつ戻りつの酔譚で恐縮ですが・・・


絵本作家 夢ら岡実果さんは「カー君と森の仲間たち」(文 吉沢誠)という絵本を出版して小中学生に増えている鬱症状から自殺について警鐘を鳴らしている。

内容は独りよがりにもみえる、思いつめた孤独感が他と接触し、認め合うことで錯覚した生き方を新しい環境の中で見つめなおし、そして自信を持った生き方を発見する・・というストリーだが、この絵本をスライドを使った、゛読み聞かせ授業゛を夢ら岡さんは行なっている。

この取り組みに対して学校、自治体、文部省が賛意を示し、その展開は全国的な取り組みとして拡大している。

いま小学生の十人に一人、中学生の五人に一人は鬱症状があるという(夢ら岡談)
たしかに読み聞かせ後の感想を生徒に聞くと、茫洋とした気持、目的が明確ではない、などを「鬱症状」とするなら、多くの生徒がそれに当たるだろう。

余談だが「ストレス」についても老若男女を問わず、感ずる、ある、が大部分だろう。つまり思い通りにならないことが数多の内部障害的症状に出てくるということである。

そこにカウンセラー、心療医師、研究者教師、はたまた占い師などが切り口の異なる原因論、解決策を提示し、その選択は「鬱」と自覚、あるいは認定された内部障害者に委ねられている。つまり症状を持つ人が多くなったと同時に、社会の表層に現れたとき、とりわけ「鬱」に関わる人々も増大し、社会現象としも耳目が集められるようになり、人間が「個性」という文字に括られたように、過去の歴史には今ほど表れることのなかった「鬱」が、触れてはならないことから、現代の病として定着しはじめている。

症の高低はあるが、無気力、虚脱、は競争社会には付き物だというが、

自己を知らずに競争に混じり敗北感を味わい自信をなくす。
馴染まない、あるいは似合わん事に手を出し混乱し、右往左往してしまう。

これらは、たとえプロパガンダで誘導されたとしても事前の観照や思索が無かったと諦められるが、自己に還ることの出来ない場合は「ストレス」「鬱」という自己認定が幾許のダメージを和らげてくれることもある。



Yamauchi Tatuo

「鬱」に真贋は馴染まないが、重度、軽度に評される他からの認定は、これが見た目症状ではなく、患い病としての医療処置が施されるべきことだが、筆者は天邪鬼にも「鬱」と対に発せられる「躁」についても考えてみた。

よく、゛躁鬱が激しい゛というが、前後の起伏が交互に訪れる状態を言うのであろうことを理解の前提として考えると、躁にみる騒がしさとの関係はアカデミックな論を外にして、躁鬱交互とは落ち着きの無い騒がしさとも観える。

ならば「躁」を考えることで「鬱」の理解程度も高まるのではないかと考えるのである。歳を増すと感情の度合いが弛むのか、それとも落ち着きが増すのか前後交互の節目が曖昧になる。肉体的鮮度?なのか、コントロールが効くのか躁鬱の調和が取れてくる。もちろん鬱や躁という意の持つ有効性と負荷を経験則で学んだ故のことだが、ことさら忌諱する文字でもないことを理解している。

またそのようになったときの対処を己に合った方法で解決している。


Yamauchi Tatuo

つまり、手軽な相談者や受診者にならないものがそこにある。

「酒を温めて鬱を医す」
食生活の変化もそうだが、よく肉を食べると冷える、根菜を食べると温まるという。風邪に葛根湯というが、葛の根を炊いたものを飲むことで身体を温めることだが、芋を食べていた敗戦直後の女性の体温は37度だが、ベジタブル、肉食グルメの近頃の女性は35度~36、これでは冷え性から便秘、体毒が滞留して関節の痛み、肌荒れ、そして「鬱」が顕著になる。

近頃では馴染まない世界で抜け切れない状態が「鬱」を招くという。だが理解の許容を云々するより、目的、使命の置き所と無闇な合理や計数との整理不可など、自と他、つまり公私の間の涵養が欠けると「鬱の棲家」も浮俗の許容に届くらしい。

それらは際限のない欲求とともに、内在的不満、要らぬ恐怖心を発生させ容相まで変化させる。誰のせいでもない「欲を少なくして貧を医す」である。

ならば「躁」を賢人はどうしたか。
「静座して躁を医す」
まず、不安から群れる徒党の騒がしさから離れ、独り静かに座って目を閉じることだと教えている。

どうも人間から発した欲望がコントロールを失い、それが社会の現象となり、育て上げたモンスターが一端降り注げば、それから逃れる為に乱舞し、あるいは殻に閉じこもる。しかし乱舞に疲れ、殻の居心地を考えたとき、解決策の無い亡羊とした世界に独り置かれたようになってしまう。

民主主義の発祥といわれるギリシャ都市国家アテネ、ローマ帝国、日が落ちることの無いといわれた大英帝国、アジアの大清国、そして今は米国も歴史の栄枯盛衰に倣って衰亡しようとしている。我国もその淵にある。

それらは繁栄の渦中に何を見て、何を国家なり民族の目的とし、行く末として観たのか・・・
人々には共通した嗜好があり、目標があった。
「温泉、グルメ、旅行、イベント」それが繁栄が誘引した幸せ感だった。

財貨と国威影響力を用いた支配地域への旅、世界の美味、浴場にみる快楽、そして奴隷の闘いと競争(スポーツ)が過度の刺激として際限なく増大した結果、民族は弛緩し国家は滅んだ。

あえて過量な酒と薬草で「躁」(トランス)状態をつくり性を快楽として、その後表れる「鬱」をも陶酔として愉しむようになった。それは病的な鬱とは異なり人為的に躁鬱といわれる症状を愉しんでいる。また自己の肉体さえ改造し、変形させてあらゆる欲望を昂揚させてもきた。終には天国や楽園をおもって自らの命を悦楽に捧げるものも出てきた。民族のカオスである。



                Yamauchi Tatuo

自省を鬱的(的→のような)ものと観て、自己陶酔を躁的と理解するもいいだろう。
ただ、我々が字句に囚われ、スポットとして関心を持つようになったことで多くのエネルギーを費やし、解決の無いまま多くの問題を浮遊させていることに、幾許の関心を抱くべきだろう。 反核、人権、平和、平等、自由、民主、総じて美句である。

アノ頃は言われることも無かった。科学は新しい問題提起として部分の探求に勤しむあまり、多くの刺激的字句を命名し発表してきた。分野としての功はあるが、果たして人々に安心を与えたか・・・誰にでも当てはまるデーターの差異と、見るからに利便に見える科学からのシャワーのように降り注ぐ、゛お知らせ゛は、より人間の心身にスパイラルにも見える負荷線を提示しているようにも見えないだろうか。

標題に戻って付け加えるが、徒党を組み酔いにまかせて悪口を言う、これは悪酒で身体にも悪い。

まずは独りで酒を温めて杯を傾けることだ。それを悦楽とすれば良き友も自然に集うものだ。

冷でも温でも和酒は対応する。なにか日本人の自助の姿に似てはいないだろうか。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする