まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

日米、もう一つの血の約束 15 2/24 再

2016-02-24 18:24:13 | Weblog



あくまで現場における無名の兵士の感慨である


戦いには表裏の事情が存在するが、政治や経済、宗教、民族、はたまた歴史的謀略に遠因を求めるが、一旦戦いを始めると現場は目の前の相手を、しかも生まれながらの恨みや肉親の因縁などなくとも、縁あって敵と称して殺し合う。平和時なら肩を寄せ合って酒を飲む相手だったかもしれない人間だ。同じ民族間なら数世代前には命を援けられた縁者かもしれない。

米国との戦いもそうだった。偏狭な部類は別として留学組は誰かしら友人や世話になった人や家族があった。それが戦争になることはまさに諸般の事情と総称されることだが、現場の凄惨な殺戮と消耗戦は内地の机で碁盤の陣取り作戦紛いのことをしている天保銭(陸大組)とは訳が違う。敢えて「訳」というのは、真剣に戦えば戦うほど同様な哀感を共有することだ。現場にはそれがある。
「訳」・・・・道理 理由

戦後、ダンスホールにもなった戦艦三笠だが、米国の海軍提督は自軍の艦艇を売却してその資金で三笠を当時の姿に復元している。マッカーサーも議会で「日本の戦いは防衛戦だった」と演説している。ともに太平洋の戦いで双方の将兵の戦いを体験し、敵ながら特攻隊の勇気も認めている。民族や国を護ると大義を唱えるが、面前の相手を殲滅しなければ自分もやられるという、瞬間の命は全能と時の戦いでもあった。目の前の敵と白兵戦もあった。友は倒れ、恐れ震える相手に容赦なく弾を打ち込んだ。双方死にたくはなかった。

時が変わって福島原発の現場作業員も本社の指示とは別に、我が身の命と仲間同士の闘いの共感があった。監督官吏や本店経営者の曖昧な指示では到底現場は動かなかった。
果たして東京側に連帯の情感はあったのだろうか。いや将来に語れる回想を共有できるのだろうか。それとも妙な巡りあわせを恨むのだろうか。
現場の体験は各々の共有する人生でもある。懐かしみ、到達感さえ味わえるだろう。










毛沢東は田中周恩来会談の後「喧嘩は終わりましたか、喧嘩すれば仲良くなる・・」の意を語った。佐藤総理は米国大統領に「勝者は敗者に憐みの情をもつことは武士道、騎士道の共通したことです」と述べ、真の勝者としての矜持を伝えている。
また、どんな戦闘でも人知を超えて「勝ち負けは時の運」ともいう。

ここで想う、なぜ理由の如何を問わず日米は友好を保っているのか。
民族や主義の争いは冷戦となった、陣営が一緒だ、とはいうが、戦勝70年記念とともに米国も参加している。それでも複雑怪奇な外交の根底には金融や軍事、エネルギーが大きな要因を成しているが、だからと言って唯々諾々と、あるいは阿諛迎合的に米国追従していると思うのは短絡的だ。

先に書いたのは、事情はともかく四年間も一国で米国相手に戦った歴史と、それに比類する国が未だ存在しない事実だ。しかも遠方とはいえ米国領ハワイ攻撃した。
たとえ追いつめられても、今はそんな度胸もなければ、企図もできない。だからポチ犬なのかは胸に手を当てて考えることだ。
そのような戦闘事実を恨むか、大したものだと賞賛するかは当時の米国人気質からすれば、進駐後の日本人の姿に拍子抜けしてもおかしくない。
ベトナム人も柔和でおとなしい。それが数年にわたるベトナム戦争で米国を追い払った。
そして軍服を脱いだ米国とは良好な関係を築いている。

某国の横柄で強がる兵士も形勢が悪くなると指揮官の制御も聞かずちり散りに遁走する。
政治家は笑顔を作るが、現場の戦闘兵士は侮り、嘲笑する。それが主義や思想を共有しても、その姿は心に沈潜する。

政治家や経済人は口舌の駆け引きに勤しむが、軍人はことほか自衛隊の隊員に信頼を寄せている。もちろん先の大戦の残影を隊員の実直さに映している。敵だったが味方にしたら・・・、当時の現場はそう思っていた。そして今は欠くことのできない存在となっている。

死者を冒涜し、末代まで怨みを遺す人たちでは無理な環境だ。

コメント
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