まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安岡正篤氏の至誠とその実像 7 12/28 再

2016-02-19 09:57:28 | 郷学

 

               序

 千歳恩讐両ながら存せず。風雲長く為に忠魂を弔ふと、幕末菅石山が楠公墓畔で詠じましたが、戦後、時が経つほど、折に触れ、縁に随って、見聞きする殉国の壮烈な人々の遺事に純浄な感激を覚えます。

 このたび全国戦争犠牲者援護会の方々並に芙蓉書房が、広く関係各団体と遺族の人々の協力を得て、五百六十八柱に上る自決烈士の中、百四十四柱の人々の尊い不朽の文献を集めてこの「世紀の自決」を刊行されたことは誠に肝銘すべきものであります。
 
 世の軽薄な人々の中には、戦争を憎むのあまり、自らの国家を否定し、殉国の士にも一向関心を持たず、無責任な利己的平和と享楽ばかりを求めてやまぬ者が多い。それは最も恥づべき堕落であります。
 
 祖国はその懐かしい山河と共に、民族の生命と伝統を顕現してをるものであり、地球は幾十億年もかかって、生命を創り、人間を生み、心霊を高め、民族を育て、国家 を拓いて、人類文明を発達させてきました。

 その自然と生命と人間精神に共通する進歩の原理原則は、常に試練と犠牲と無くしては行はれないことを、科学によっても明らかにされてをります。書経に所謂「自ら靖んじ自ら献ずる」このことによって、人も、家も、国も、人類も、文明も進歩発達してきたのであります。

 明治維新の偉大な一人の先覚浅見絅斎が「靖献遺言」を著したのも、自ら靖献して殉義殉国した人々を世に表彰したのですが、この一巻の「世紀の自決」も亦新たな一つの「靖献遺言」と言ふことができませう。
 
 このごろの世は甚だしい背徳と忘恩の横行する軽薄時代ですが、これをどうして救ふことができるでせうか。その一つの原理は、たしかに論語に所謂、「終を慎み、遠を追へば、民の俗、厚きに帰す」といふ教にあると信じます。

 この書は、この意味において尊い「追遠」の一つの事業であります。
微々たる花粉が太平洋を越えてアメリカ大陸に育つこともあり、ヨーロッパの地層に沈んで、不滅の跡を留めてゐることを科学者は発見してをります。私は敬しんで英霊に心香を献じてこの一文を呈する次第であります。
  

昭和四十三年六月六日

             安岡正篤 撰

昭和45年8月1日発行
世紀の自決   序




頌徳表


明治維新の大業は吉田松陰先生の指導に因って成就す、蓋し過言に非ず、先生は夙に国難を憂ひ日夜肝胆を砕き有能なる子弟育成に心血を注げり。憂国の忠魂今尚長州に脹る。

 村本忠言翁は明治三十年八月九日長州に生れ五十一年三月三十日長州に鎮す。翁は幼にして憂国の志厚く長じて学び順って忠魂の気概益々旺んなり  秋恰も昭和二十年八月十五日終戦の詔勅降るや我国古来の道義 美風 荒廃せり、翁は憂慮し決然と起つ

 抑々翁は笠木良明先生の知遇を享け爾来国一を憂うる同志相集いて諮ること婁々なリ  時節到来日本再建法案大綱の編纂に当りその発起人に名を列ね国家の発展に貢献する処実に少なからず、然も尚翁の志操の遠大を遺さんと欲すれば則ち奮って翁の記された言辞を以ってその極みとす

 曰く 草莽の一声は天下に隆々として鳴り響くと、翁は争いを避けて和を尊び終始、尽而不欲、施而不受の気節に富み、又先人言う所の第宅器物その奇を要せず、有れば即ち有るに従って楽しみ無ければ無きに任せて晏如たり  
而して黙て語らず薀蓄を啓いては裨益すること太だ多し  

 俊英の志行半ばにして七十八才を以って長ず、児孫等日夜其の遺風を懐い慎んで その遺徳を肝に銘じ競々として其の志操を忘れず、翁の生前を偲び永くその功を敬ひ謹んでその徳を頌し以って紀念と為す

  寶田時雄 撰文 安岡正篤 監修


【頌徳表】

 人物の功績と意志を永く継承する為に石碑や書状に遺すものだが、この撰文は石に刻むことを前提にして記したものです。
 それゆえ章を短縮する意味もあり、多くの内意と音(オン)を考えて構成したものである。もちろん頌徳の大意を基に故人の事跡と次世への期待が過去、現在、未来と続く精神の継承としての現世撰者の勤めがあると記したものである。

 安岡師は筆者の手書きの文章を三回熟読して,『直してよろしいですか・・』と筆者を凝視した。そして傍らの赤鉛筆で添削した。直すところは二字だったが、読み直してみると文章がよく流れた。オンもよくなった。

そして『文章は巧い下手ではない。また現代の浮俗に迎合するものではない。君の至誠が百年経っても、偶然見るものにとっても記された内容とその至情を悟り、国家に有為な人材としてなることがある。頌徳とはそのために表わすものだ』

 同時に『この意志を遺して伝播するには、君、無名が肝心だ。今どきは有名でも、歴史に対しては有名無力だ。この至誠は無名だが有力だ。それを遂げるには郷学を興しなさい。』

 両切りのピースと羊羹での初対面だった。また初めて知った安岡という名前だった。その後様々な事跡を聞き及んだが、筆者にとっては世俗にまみえた安岡像の欺瞞は当人にとっても厄介な偽装と観えた事だろう。
 とくに名利の具にする政治家や経済人、あるいは種々の井戸端論評は学問、教育に多くの錯覚した社会的災いを興している。

 玄関に立ち、姿が見えなくなるまで見送られる明治人の一期一会の緊迫感と応答の厳しさと優しさは、その後の人物観の座標になった。

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