まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

法の傍をウロウロすること 11 5/17 再

2016-02-09 10:59:13 | Weblog



法は、いつでも、幾つでもつくれる。だが社会の煩いは増大する。しかし家族、教育、政治、職域にある狭い範囲の掟や習慣が壊れたら再生には百年かかるという。易きに流れる利便への誘惑は人間そのものを融解させ社会の調和や連帯を失くしてしまう。食べ方、行儀、悪くなるのは一代だが、再生(矯正)には三代、つまり半世紀以上掛かるという。

ちなみにある程度の人が問題意識を持っている風俗もそうだし、あの受験戦争も同じだ
そんな時間をかけられないと維新や革命が風向きを変える
その場合の体制法規はご破算になる。

法は人間生活のいたるところに浸透して解決もそれに委ねている。書き物に蹂躙され、肉体化された経験則は無意味なものとして除外される。それは親子の伝承や教師と生徒、国民と政府にも乾いた関係を作り出し、人情の交歓や他との信頼などは無くなり、人は個別化しつつ分別管理されるようになった。

またまた、小難しい理屈のようだが、法一つとっても、いつの間にか慣らされてきたようだ。昔は「法のそばをウロウロする奴はろくな人間ではない」と年寄りから懇々と諭された。「法のお世話になってはいけない」ともいわれた。

いまはウッカリすると直ぐ罰金だ。知らなければ悪で愚か者だといわれる。
彼らにとっては、お陰さまで・・・とその徴収の多寡を陰で数えている。


どうも法で金稼ぎするようになってから、この国はおかしくなった。
たしかに「法のそばをウロウロする奴はろくでもない・・」昔の年寄りは分かっていた。

コメント
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