A Challenge To Fate

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【私のポストパンク禁断症状#7】いのち短し、ポストパンクせよ乙女~デルタ・ファイヴ『モダニズム~情熱への回帰』とザ・モデッツ『ストーリー・ソー・ファー』

2020年04月23日 02時32分33秒 | ガールズ・アーティストの華麗な世界


70年代後半のパンク/ニューウェイヴ・ムーヴメントに於いて重要なことは、女性のロック界への進出だった。それまでも女性ロックミュージシャンは少なくなかったが、ロックシーンのヒエラルキーはあくまで男尊女卑で、ガールズロッカーに求められたのは音楽性や才能よりも華やかさやセックスアピールだったと思われる。もちろんそれは音楽界に限らず、社会全体の風潮であり、女性の社会進出は先進国の多くでも大きな課題であった。「やりたいことは自分でやっちまえ!(Do It Yourself)」と叫んだパンクムーヴメントが女性の社会進出を後押ししたことは確かであろう。そしてそれは決して平たんな道でなかったことはザ・スリッツの伝記映画でも描かれた。
【私のポストパンク禁断症状#5】映画『ザ・スリッツ:ヒア・トゥ・ビー・ハード』〜時代に切れ目を入れる系女子の自分自身宣言。

ザ・スリッツと同じようにロック界に進出したガールズパンクロッカーをこよなく愛したい。リディア・ランチ、スージー・スー、ペネトレーション、Xレイ・スペックス、ザ・レインコーツ、ドリー・ミクスチャー・・・。そして今回取り上げる2つのバンド、デルタ・ファイヴとザ・モデッツも重要なポストパンク女子だった。両者に共通するのは、インディーで数枚のシングル、メジャーで1枚のアルバムを残し、3年弱の活動で散っていったことである。総じて女子アーティストの活動期間は男子より短い。筆者が2000年代半ば熱心に追いかけたガールズガレージバンドのほとんどは現在活動していないし、今の推しの地下アイドルシーン然りである。大正時代の流行歌に倣って”いのち短し パンクせよ乙女、ロック魂 失せぬ間に”と洒落てみたい。

●デルタ・ファイヴ Delta 5 『モダニズム~情熱への回帰 See The Whirl'..』


ジュルツ・セール Julz Sale : vo,g 
ロス・アレン Ros Allen : b
ベサン・ピーターズ Bethan Peters : b
ケルヴィン・ナイト Kelvin Knight : ds
アラン・リッグス Alan Riggs : g

1979年にイギリスのリーズにて、地元のロックバンド、Gang Of FourやThe Mekonに影響されたジュルツ、ロス、ベサンの3人の女子の”気まぐれで”結成された。オーディションでケルヴィンとアラン・リッグス(g)が加わり、リーズのポストパンク・シーンで本格的に活動を始める。79年にRough Tradeから1stシングル「Mind Your Own Business」をリリース。Gang Of Fourと共に「ロック・アゲインスト・レイシズム」ムーヴメントの中心バンドとして活動。80年、2ndシングル「You」のリリース後、全米ツアーを成功させ、Rough Tradeを離れカリスマ・レコード傘下のPreレーベルと契約し、81年デビューアルバム『モダニズム~情熱への回帰 See The Whirl'..』をリリースしたが、プレスから酷評され、商業的にも失敗し、同年解散した。

81年にジャパン・レコード(のちの徳間ジャパン)がRough Tradeレーベルを日本で紹介し始めた。第1弾としてザ・ポップ・グループの2ndアルバム『フォー・ハウ・マッチ・ロンガー~』と共に、7インチ・シングルが12枚同時にリリースされた。カタログNo.でいうとキャバレー・ヴォルテール「Nag Nag Nag」(RT-1)、ザ・ポップ・グループ「We are All Prostitutes」(RT-2)の次のRT-3がデルタ・ファイヴの「Mind Your Own Business」だった。邦題は「勝手にしやがれ」でセックス・ピストルズのアルバム・タイトルと同じ。B面の「Now That You've Gone」の邦題は「もう、おれへんで」。なぜか関西弁である。今思えばINUの『メシ喰うな!』が81年3月にジャパン・レコードからリリースされているので、町田町蔵の大阪弁の影響だと思われる。それにしても、Rough Tradeの他のシングルの邦題は「In The Beginning There Was Rhythm=はじめにリズムありき(ザ・スリッツ)」「Where There's A Will..=意志あるところ(ザ・ポップ・グループ)」「At Last I Am Free=生きる歓び(ロバート・ワイアット)」「I Know Where Syd Barrett Lives=シド・バレットはどこ?(T.V.パーソナリティーズ)」と真面目なのに、デルタ・ファイヴだけフザケ半分に思えることは、このバンドの微妙な立ち位置を象徴しているように思われる。イギリスではフェミニズムや反レイシズムといった政治的なメッセージを歌う硬派なバンドとして評価され、それゆえにインディーのRough Tradeからメジャーに移籍したことで総スカンを喰う運命を辿った。日本ではザ・ポップ・グループやキャブスをメインとするRough Tradeのオルタネイティヴなイメージの陰に隠れてメディアに紹介されることもほとんどなかった。アルバムの邦題『モダニズム~情熱への回帰』も情緒を排して機能美を追求する”モダニズム”と真逆の”情熱=エモーショナリズム(情緒主義)”を並べる大矛盾。オーヴァー・プロデュースを批判されるが、今聴くとPigbagやA Certain Ratioやファンカラティーナなどのニューウェイヴ・ファンクと同期する斬新さがあり、決して悪くはない。2006年にCDリリースされた初期シングル+セッション編集盤『Singles & Sessions 1979 - 81』が昨年再発され、再評価されているが、不遇のオリジナル・アルバムにも陽の目を見せてやりたい。

Delta 5 on Something Else 1981 "Make Up" & "Anticipation" (live)



●ザ・モデッツ The Mo-dettes 『ストーリー・ソー・ファー The Story So Far』


ケイト・コッリス Kate Korris : g 
ジェーン・クロックフォード Jane Crockford : b
ジューン・マイルズ=キングストン June Miles-Kingston : ds
ラモーナ・カーリアー Ramona Carlier : vo

1979年、The Slits/The Raincoatsのオリジナル・メンバーだったケイト・コッリスと、元Bank of Dersdenのジェーン・クロックフォードを中心にロンドンにて結成された。1979年自主レーベルMode(配給Rough Trade)から、1stシングル「White Mouse」をリリース、インディーヒットとなる。80年にBBCのJohn Peel Sessionに何度も出演し注目を浴びる。デッカ・レコード傘下のデラムと契約し、1980年11月にアルバム『ストーリー・ソー・ファー The Story So Far』をリリース、ローリング・ストーンズのカヴァー「黒くぬれ Paint It Black」がマイナーヒットした。その後シングルを1枚リリースするもパッとせず、デッカ・レコードからのプレッシャーでメンバーを増員するが、82年2月ヴォーカルのラモーナが脱退、別のヴォ―カルを試すも同年11月に解散。

ザ・モデッツはデルタ・ファイヴとは異なり、日本の音楽誌で良く取り上げられた。それはやはり全員女性のバンドであり、なおかつルックスやファッションがオシャレだったためだろう。当時音楽ばかりでなく風俗・ファッションのキーワードだった「モッズ Mods」を連想させるネーミング、60年代レトロファッションのキュートさは格好のグラビアネタだった。また、デビュー曲「White Mouse」はイギリスのメディアで男女差別の歌と解釈され、”フェミニスト(男嫌い)の女性バンド”として下世話な関心を持たれたという。メンバーはそうした扱いに反感を持っており、当時のインタビューでは「最初の半年は、女がバンドをやるのはどんな感じかって、いつも聞かれる」「フェミニストじゃなかったら、フザケ半分の可愛子ちゃんだろう、とカテゴリー分けされるのが大嫌い」といった発言が多い。さらに自主レーベルの配給をしていたRough Tradeとの軋轢もあった。スペインのプロモーターがザ・モデッツを呼びたいと問合せしたところ、Rough Tradeの担当者が「モデッツなんてとんでもない、ザ・スリッツにしろ」と応えたという。そうしたインディーの圧力に反発してメジャーのデッカ・レコードと契約するが、今度は大手企業の「売るものを作れ」というプレッシャーに直面し、耐え切れず崩壊の道を辿った。ルックスやファッションよりも音楽性を追求したかったに違いないが、時代や環境がそれを許さなかったのだろう。ちなみにドラムのジューンはモデッツ解散後、 Fun Boy Three、Thompson Twins、Everything But the Girl、Communardsなど人気バンドのセッション・ドラマーとして成功を収めることになる。

Madness / The Mo-dettes - Live At Rockstage 1980 FULL CONCERT


解散から30年近く経ってから再評価されたとしても、それはいわば「敗者復活戦」「欠席裁判」「死後評価」に過ぎない。当事者にとっては既に結果は出ているのだから、もう遅すぎる。現役の時に褒められ報われたかったに違いない。それでも彼女たちの残した作品を語り続けることで、産み落とされた「音楽」の魂を本来あるべき場所へ送り届ける助けになることを願ってやまない。

遅すぎた
追悼の辞を
妄想す



他にも短命に終わったポストパンク乙女を思い出した。筆者が80年代前半に学生バンドでカヴァーしていたガールズ・アット・アワ・ベスト Girls At Our Bestについてフィロソフィーのダンスのプロデューサー加茂啓太郎氏が書いている。
音楽にこんがらがって「ガールズ・アット・アワ・ベストが好き」
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