A Challenge To Fate

私の好きな一風変わった音楽を中心に徒然に綴ったページです。地下文化好きな方は見てやって下さいm(_ _)m  

アメリカン・ポップ・アート展@国立新美術館 2013.9.22(sun)

2013年09月24日 00時33分35秒 | アート!アート!アート!


アメリカン・ポップ・アート展

2013年8月7日(水)~10月21日(月)
国立新美術館 企画展示室2E

1960年代ニューヨークを震源地に世界を席巻したポップ・アートの重要作を網羅した展覧会。すべてコロラド州を本拠地とするジョン・アンド・キミコ・パワーズ夫妻の個人コレクションである。出版業を営むパワーズ夫妻はポップ・アートがまだ評価を確立する以前からその真価を見抜き、作家を直接支援することによって、個人コレクションとしては世界最大級のポップ・アート・コレクションを築き上げた。今回展示されたウォーホル、リキテンスタイン、オルデンバーグ、ローゼンクイスト、ウェッセルマン、ラウシェンバーグ、ジョーンズらとはプライヴェートでも親しく付き合い、誕生日などにプレゼントされた作品もある。206点に上る膨大なコレクションは殆どすべて、コロラドの邸宅の壁に飾られて普段の生活を彩っているという。その邸宅たるや、日本では考えられない広大な敷地の豪勢な建築で、夫妻が相当の資産家でありセレブであることは間違いない。芸術のパトロン&コレクターになるには、潤沢な財産と社会的地位が必要なのである。パワーズ夫妻を見習って、芽が出る前の新進芸術家に先行投資しよう、と思われる向きもあろうが、都内のマンションの一室に住む身ならば無理しない方がいい。分不相応という言葉はアナタのためにある。



音声ガイドで小林克也のナレーションを聴きながら鑑賞するうちに、美術評論とは妄言虚言と紙一重であることに気づいた。例えばジャスパー・ジョーンズのアメリカ地図を素材とした絵については「画家の出身地ジョージア州を含む右下4分の1が違う素材で描かれているのは、人種差別が根強いこの地帯を他の地区と分けて強調するため。絵を逆さにするとアメリカ国旗に見えることに画家の強烈な糾弾精神が反映されている」といった具合。一瞬なるほど!と頷いてしまうが、ジョーンズが果たしてそこまで意図して描いたのかどうか? 音楽の場合、評論家やリスナーが深読みの挙げ句の妄想分析をしても、アーティスト本人に尋ねると、よっぽど計画性がある作為的なミュージシャン、例えばロバート・フリップやフランク・ザッパならいざ知らず、大方が「やってみたらこうなった」とか「このほうがカッコいいじゃん」とかと言うのが事実。間章や阿木譲にしろ、北村昌士や秋田昌美にしろ、竹田賢一や山崎春美にしろ、『ブリティッシュ・ロック 思想・背景・哲学』の著者:林浩平やこの私にしろ、リスナーは勝手に膨らませた妄想について、持てる知識を総動員して、如何に説得力のある妄言虚言を加えられるか、というのが音楽評論の醍醐味と言って良かろう。現実を表現者が独自に解釈・咀嚼し抽象化するゲージュツに答えは存在しない。だから評論する際に、作者の意思は不必要、いや邪魔である、と言い切ってもいい。評論自体がゲージュツから独立した表現行為なのである。弁が立てば誰でもなれる音楽評論家に比べ、美術評論家は美学・芸術学を専攻したエリートが多いから偉そうに見えるが、内実はもっともらしい学理を振りかざして自分勝手な妄想に権威を与える独裁的偏執狂に違いはない。すなわち目くそ鼻くそなので、鵜呑みにしてはならない。



この展覧会の目玉はポップ・アートの「モナ・リザ」と呼ばれる、アンディ・ウォーホルの最高傑作「200個のキャンベル・スープ缶」だと謳われている。ひとつひとつ筆で描いたウォーホルの努力は買うが、ぶっちゃけコピペした方が楽じゃね?と思う者は多いに違いない。ごもっとも、オレも手書きはゴメンである。コンピュータと100,000,000,000,000桁の計算問題のスピードを競うようなもので、絶対勝ち目は無い。手書きの方が味があると言い張るのは前時代的な石器人だけだ。キャンベル・スープ缶から半世紀も経った現代では、ポップ・アートの意義も方法論も異なるのが当然だろう。




●その夜、池袋で開催された山崎春美トークショーの現場にポップ・アートが応用されていたことは偶然ではない。





ポップとは
ポピュラーなのだ
ポップコーン

This Is Pop Is This?



コメント
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