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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

和気清麻呂と紙幣のイノシシ

2007年01月20日 10時17分07秒 | Journal
 このブログで、日枝神社に狛犬ならぬ狛猿があると書いたら、狛イノシシというのが京都の護王神社にあるとトラックバックをいただいた。護王神社の狛猪には、道鏡と和気清麻呂に関するなかなか興味深い史的伝承があり、その「歴史」が明治の紙幣に刷られていたとは、はじめて知った。なお、和気清麻呂は純粋なニッポン人ではなく、渡来系だとされている。聖徳太子以来、忠臣にコーリアからの渡来系が多かったことは、作品第2巻でも触れてある。

 日本銀行金融研究所貨幣博物館のHPに、次の記述を見つけた。――1899(明治32)年に発行された日本銀行券甲十円券の裏面には「猪」が描かれており、甲十円券は通称「いのしし札」と呼ばれています。
 また甲十円券の前、1888(明治23)年に発行された日本銀行券改造十円券の表の肖像は和気清麻呂で、その周りに8匹の小さないのししが描かれいることから通称「表いのしし」と呼ばれています。
 和気清麻呂(733~799年)は、称徳天皇の皇位を護り、平安遷都に功績があり、「忠義の英雄」として戦前の国定教科書に掲載されていました。清麻呂は称徳天皇に重用されていましたが、当時、天皇に寵愛されていた道鏡がまさに飛ぶ鳥を落とす勢いを誇っていました。そして、ある時、道鏡一派の九州太宰府の神職が、宇佐八幡の神託として、「道鏡が皇位につけば、天下太平となろう」と伝えてきたのです。
 そこで、称徳天皇は清麻呂を宇佐八幡に出張させて神託を確認させたところ、「わが国では昔から君子と臣下は決まっている。臣下を君子とすることはない。」と、先の神託とは全く逆の内容を告げられたのでした。このため清麻呂は道鏡の怒りを買い、大隅国(現在の鹿児島県)へ流されることになりました。
 清麻呂は大隅国へ行く途中で、皇位の安泰を祈願するため宇佐詣でをしようとしたところ、道鏡の手先に暗殺されそうになりました。その時、約300頭の猪が突然現われて、清麻呂の御輿の前後を護衛しながら宇佐八幡までの道を無事に案内したということです。
 なお、清麻呂をまつる京都の護王神社では、この話を基に「猪は清麻呂の守護神」として、拝殿の前に狛犬の代わりに雌雄2頭の猪を安置しています。
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