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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

2011正月の北京Ⅰ 老舎故居を訪ねて

2011年01月04日 13時02分12秒 | Journal


 2010.12.28(火曜日) 昨晩から妻の小妹(シャオメイ)と北京へきている。彼女の里帰りに同行したかたちだ。この前まで北京へくると彼女のマンションに泊まってきたが、そこはいま貸し出している。1年に夏冬の10日やそこらしか使わないのではもったいない。泊まっているのは写真建物左端の五星紅旗はためく北京貴賓楼飯店(Grand Hotel Beijing)という5つ星ホテル。長安街に面し天安門にごく近く、有名な4つ星の北京飯店(Beijing Hotel)に隣接する。この時期は閑散期なので、1ランク上のスイートに部屋を格上げしてくれた。フロアの吹き抜け空間に面した部屋のバルコニーに置かれた円卓でパソコンを叩いている。外は晴れてはいても氷点下の気温だが、ここは明るく原稿を書くのにはもってこいだ。
 ホテルの外にでることなく、廊下を抜けて隣の北京飯店のわきから王府井(ワンフージン)にでられた。いま、旅行にも持参した『駱駝祥子(ロート・シアンツ)』(1936年)の作者、老舎の旧宅を目指した。外は日ざしはあるが北海道でいう「しばれる」という冷気に包まれており、思わず襟元のマフラーで首を隠す。途中から広く歩行者天国になっている王府井大街をずっと行って、灯市口西街を左に折れると、右手の細い路地を入ったところの豊富胡同に老舎故居があった。老舎は、1950年初めにアメリカから帰国すると、この場所に住居を購入し、以後、1966年8月に北京の北にある太平湖に入水自殺するまで16年間ここに暮らした。入場は無料。スリムで黒の細いジーンズをはいた恰好の良い初老の管理人によれば、出世した老舎の子供は、父親のことをたくさんの人に知ってもらいたくて、ここを入館無料で運営しているのだとか。入ってみれば中庭のある小さな四合院である。文人らしい静かで質素な街中の隠れ屋である。彼の作品に登場する人物たちと同じく、北京をこよなく愛した老舎は、あくまで北京の真ん中で北京の街の音に包まれて暮らしていたかったのだろう。庭に大きな銅製の金魚鉢があって、展示の写真にも残っているが、執筆のかたわら老舎は大鉢に寄りそって金魚を眺めて心を休めた。1年前の冬、やはり北京を訪れた際に魯迅の故居へも行ったが、同じ四合院といっても少し雰囲気が違っている。魯迅は時代の先端に立って厳しく時局と対峙した吶喊(とっかん)の政治的作家だったことから、毛沢東は大いに評価した。老舎はあくまで文人然として、温和な郷愁の作家だった。平和な時代であれば、老舎のほうが幸せな作家であり得たであろう。しかし、彼は、実に穏当な弁明を受け入れない容赦ない過酷の時代に生きた。車引きである祥子の主人、曹先生のように「要領よくたちまわって自分のためにインチキな箔(はく)をつけることを拒否した。良心に照らし、自分が立派な闘志になれぬことを不甲斐なく思うと同時に、いっぽうまた、いかさま闘志になることをも拒否したのである」(岩波文庫189-190p)。老舎先生が周恩来と懇意であったのだと、二人が一緒にうつる何枚かの写真で知る。文革の折、彼の悲劇は周恩来が手を差し伸べる時もなく訪れたのであろう。彼は公衆の面前で耐えがたい辱めを受けた。面子(メンツ)を尊ぶ満州族の出身であったインテリ作家の老舎は、翌朝、家を出、夏の一日を湖畔ですごし、夜に入ってから身を投げた。
 老舎故居に近い北京料理のレストランに入って、昼飯に、ばんばんじゃんと羊肉のうどんを食べた。羊肉はジンギスカンをうどんにしたような味だった。今まで何度か北京を訪問したなかで、このレストランに一番、老北京らしい雰囲気を感じたが、小妹は「これは比較的新しいのじゃない」と言った。来るとき道を訊ねた80前後の婆さんたちの一団が十数人と、一段高いところの円卓2つに分かれて女学校の同窓会のように楽しげに会食をしていた。ここは、ちょっと古風で濃厚に北京だという気がした。まだ読んだこともないのだが、まるで老舎が描いた「茶館」のように。最後の写真は「老舎」の名がついた北京中心街の茶館だ。
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