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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

啄木、釧路新聞社の退社の社告

2006年03月19日 16時04分54秒 | Journal
 渋民小学校の代用教員の職を辞した啄木は、明治40年5月、北海道へ渡る。各地の新聞社を渡り歩く放浪の10カ月となった。

 Wikipediaには、5月5日、函館に移るが妻子は盛岡の妻の実家、妹は小樽駅長の義兄に託す。6月、代用教員となり、8月には「函館日日新聞」遊軍記者も兼ねる。函館大火があり、離れる。9月、札幌で『北門新報』の校正係となる。9月末、さらに小樽に移り、近く創刊される『小樽日報』の記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社。
 1908年1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光次郎の講演を聞き、西川と面識を得る。家族を小樽に残し、旧釧路新聞社(現釧路新聞社と社名が同一であるが、全くの別会社。新聞事業令に基づく1942年の新聞統合の結果、旧北海タイムス・旧小樽新聞・旧函館新聞・旧釧路新聞など道内各地11紙が統合して現北海道新聞社誕生)に勤務するが、3月には上司である主筆への不満と東京での創作活動にあこがれ釧路を離れる決意をする。

 それにしても、無断だったとはいえ、わざわざ退職者名を社告に載せるとは、変わった話だ。啄木は、この新聞社から月給25円を貰っていた。
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