8月19日付本ブログで「天声人語」の言葉の使い方に関して、小生なりの疑問を呈したが、今回も「天声人語」への一つの疑問である。
写真は8月18日付の天声人語の全文である。
お読みいただくとおわかりのとおり、この日のテーマは、将棋の話を引き合いに、現在の政治状況と来るべき総選挙について様々な角度から考察し、一人ひとりへのメッセージとして
▼A党はイヤだからB党、B党がダメなのでC党・・・。かれこれ20年、有権者は早指し将棋よろしく「直感の一票」を投じてきたが、いよいよ長考の時である
と結論の部分もまた将棋の話で『締め』ている。
「今こそ大切な時だ、この際、これまでと違って一人ひとりが立ち止まってじっくり考えて行動すべきだ」というメッセージを将棋の「長考」になぞらえた意図は痛いほどよくわかる。
問題は、「長考」という言葉の使い方、用い方である。
というのは、本コラムの冒頭で
将棋で、長考に好手なしという。時をかけても巧い手は浮かばないと。
と長考について余り肯定的でない書き方をしている。(「下手な長考、休むに似たり」という格言に近い?)
この冒頭の話とコラムの結論の部分の「いよいよ長考の時である」という論旨が、何ともチグハグに思えてならないのである。(例えば、「今こそ好手に結びつける長考の時である」などはどうだろう。)
将棋や囲碁と言った勝負には、しばしば「見落とし」、「錯覚」といったことがつきものだ。
また、「上手の手から水が漏れる」という格言もある。
今回の将棋を引き合いに出した天声人語も、コラム担当者の「見落とし」、「錯覚」あるいは「上手の手から水が漏れる」類の話なのかなと思った訳だが、ひょっとして全くもって小生の「ひとりよがり」、「揚げ足取り」なのかもしれないが・・・・・。