すっかり忘れていたら、5月ごろから大きな葉を持った茎がどんどん伸びてつ
いに花が咲く。あざみのような牛蒡の花を初めて見た。
4月ごろから右の腰上部に耐えず違和感があった。日常生活に
全く支障がない程度なのでありあわせの湿布薬を貼りそのまま
時が経過した。高血圧治療薬が切れたので、かかり付けM医院
で診察を受ける。その際このことを相談した。数多くのがん患
者を見てきた医師の言葉にズキンをきた。「知らないうちに腹
部の臓器に発症したガンが骨転移して痛むという可能性もある。
紹介状を書くからCTで検査しておいた方が良い。」
2週間後かっての職場だったH病院の消化器外科を受診する。
「CT画像では気になるようなところはありません。読影専門
の医師に見てもらい、結果はM医院に返事をします。」
H病院
そのままほぼ一ヵ月が経ちM医院を定期受診。その時は違和感
は軽くなっていた。M医師も紹介状を書いたことを忘れていた。
こちらから結果はどうでした? と尋ねる。
彼はカルテに綴られた返事の内容に暫く目を通した後にこう言
った。
M「副腎の上部にごく小さな腫瘍らしきものがあるようだ。外
科医は画像上での判断を言っただけであり、今の専門化した医
療の世界では彼にもわからないことも多々あるはず。H病院に
は内分泌内科の専門医師もいるはず。」
私「それぞれ専門分野の医師がいるのに、そちらでも診てもら
うように手配しないのかな? 同じ病院内なのに・・」
M「あなたの身体の状態の医学的、一義的な責任は私にありま
す。それが家庭医というものです。だから紹介状を書いた。
従って検査の結果は私のところへ報告されて、その内容を分か
りやすくあなたにこうして説明しているのです。」
もう20年近くの付き合いになるM医師の返事に納得した。
それからが長くなった。他の患者さんが少ない時間帯だったせ
いか。
M医院
副腎という臓器の位置、機能、ホルモン生産工場であること、
さらにこの部位のガンの発症から終末までの経過等々30分
にわたって説明を受けた。とにかく細かい。この臓器が生産す
る各種ホルモンの話なんか聞いてもこっちはチンプンカンプン。
結論としてH病院の内分泌内科の旧知のS医師に診てもらうこ
とになった。
この一連の話の中で頻繁に出てきた言葉が「可能性」。私もし
ばしば使う。この言葉の下では例外なしにすべてが納得させら
れてしまう。受取り方によっては責任逃れの印象が付きまとう。
この場合はそう言わざるを得ないことも理解できる。ガンが現
実になってしまうか、杞憂に過ぎなかったかは神のみぞ知る領
域なんだろう。ここまで元気で生きてくれば、様々なことは保
険だとあるいは確率だと思えば筋が通る。そのつもりで月末に
再受診する。
M医師とはウマが合う。私の高校の後輩だ。世間話から始まり、
これだけ話をし、またこちらの話も充分に聴いてくれる医師に
身を任せられるのは幸せなこと。積極的に往診にも応じてくれ
ようだ。若すぎず年寄りすぎず丁度良い年齢差。
誰にもやってくる終末をおだやかに看取ってもらえる関係が今
後も続くことを願う。
ここまで書いてふと思った。「可能性」は医学用語ではなく、
工学や理学の用語ではないか。このアイディアを製品化できる
可能性は30%というふうに。本来こういった場面で使うのは
「恐れがある」でないといけないのではないか。「腫瘍の可能
性がある・・」とはおかしいですよね。
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