昭和村の道の駅に掲げられていた赤城山北面の空中写真
数年程前に拙ブログで掲載したかもしれない一枚の写真。赤城北面を北東方角から撮影した一枚。雄大な斜面は昭和村のこん
にゃく主体の畑で戦後開墾されたのだろう。左半分は利根川と沼田で合する片品川が利根川とともに作り出した教科書にも載
る河岸段丘。段丘の斜面がゆえに残された森がそのことを雄弁に語っている。各地に残る段丘地形の中でも典型的なものと言
われている。
1日地図を見ていても飽きないほどの地図好き人間だが、国土地理院作成の地図をいくら読んでもここまでのリアルはな光景
は頭に浮かんでこない。県民の誰もが知っている上毛かるたにも「すそ野は長し赤城山」という読み札の一枚になっている。
東は渡良瀬山地、西は榛名山群と利根川で分断されているが、南は関東平野と同標高になるまで長い裾野が伸び、北はご覧の
通り。山に恵まれている我が県でも代表的な山。
上野から高崎線に乗ると晴れた日なら最初に目に飛び込んでくるのがこの山。萩原朔太郎の帰郷と題する詩、固有名詞として
は出てこないが我々年代の県民ならすぐに思いつく山である。
もっとも作者は離婚して幼子を連れの傷心を抱えての夜汽車。山は見えないが彼の寂寥とした心境が浮かぶ。故郷前橋あたり
から高まり始めるこの赤城山であり、夜汽車(あせた小豆色の客車の硬い木の背もたれ、窓の上に伸びた荷物だな、窓下の足
掛けには暖房用のスチームが通る。今の基準では暗過ぎる車燈、もちろん蒸気機関車(D51デコイチと書いてしまうと当時
の夜汽車の雰囲気が出ない)がけん引する。車中で幼子たちは眠り落ちてしまい、乗客の多くも眠りに落ち・・・
参考までにネット記事の朔太郎の帰郷で見たものを張り付けます。朔太郎の数ある詩の中で最も好きな詩です。
注意してくれる人あり、昭和4年にはD51生まれてなかったという。雰囲気は同じでしょうからお許しを。
帰郷
昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る
わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗(ほのぐら)き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未來は絶望の岸に向へり。
砂礫のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。
こんな素晴らしい詩がネットからコピー、張り付けでいとも簡単にできてしまう現状、あたかも自作のようだ。これで良いの
かな? との疑問も抱きながら原稿を書く。詩人朔太郎がこれからも長く愛される続けることを念じながらせめてもの罪滅ぼ
しとします。
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