そういう人間が明らかにいる。戦争映画は、近頃流行らないのかもしれないが、古いビデオなどみれば、戦争場面が、延々と続いて、何のためにこんなシーンが続くのだろうかと不思議に思う。
人間が殺し合うことは、異常であり普通でないから、映画にもなり、ドラマにもなる。ほんの74年ほど前には、普通の人々が戦争で人を殺すことは、あたりまえであった。実際にイメージしてみて、その残酷なことはすぐにわかることである。沖縄、硫黄島、東京大空襲、大阪大空襲、全国各地への空襲、広島長崎への原爆投下、これによって、何百万人もの人命が失われ、国民は苦しみのどん底へ叩き込まれた。
戦争がとんでもない悲劇をもたらすものであることを、知り尽くしているはずなのに、憲法を変えて、戦争ができる国にしようとする勢力は、徐々に、その力を蓄えつつある。理不尽な圧力、国と国の面子、領土問題、戦争する法的基盤と理由さえあれば、名誉と誇りのために、生命も惜しくはない。あるいは、そういう人間がいることをみこして、自分や子弟は、戦争等にいくことはないが、どうでもいい大衆諸君は、いくらでもいるのだから、かれらをたきつけ、国のために生命を投げ出させることは、厭いはしない。
勲章でもなんでもやる。家族に年金だって、支給しようではないか。他国に舐められない、こちらの正当な主張が通ることこそ大事である。と、こんな風の方向が見えてきているのではないか。
人類が、全体として、平和な貧困のない世界を目指している姿ではない。目先のディールの虜になっている。それもあけすけな、自国ファーストを打ち出して、恥じるところがない。指導者がそんな具合では、困るのである。人類の叡智の体現者であってほしい政治家が程度の低い本音を喋っている。
何のために、長期のお金のかかる選挙活動をしてきたのだろう。いまだに、聖書に書かれていることが「真実」であると信じきっている人々がいる。論理的な矛盾点を示して、サッサと論破しないのだろうか。
少なくとも、それを信じきってしまう危うさについて、語りあうことはできないのだろうか。とにかく、人類社会は、とんでもない水準のまま、推移している。