記者と政治家の関係は、政治家同士の権力争いであるとか、政党同士の争いにも絡むのは、当然で、政治家tとの、つながりがあって、彼らは活動する。
田中角栄元首相から、新人記者が当時お歳暮をもらい、その記者の母親が角栄さんの大ファンになったと、件の元記者、今は評論家がポロっと喋ったが、それこそ語るに落ちたということである。母親がファンになったのみならず、自分もそうなったのである。これを買収というのだ。
貧しい者の現状を知っているかのように、評論家どもが言うが、彼らはエリートなのである。すむ世界が違う。権力者とつるむことで、彼らの身分は保障され、待遇が決まる。そういう具合にして、政界を泳ぎ回り、情報を流す。加工され、隠蔽され、弱者をだましつつ、おだてつつ大きく支配下にとりこむ役回りを担当している。
自民党の憲法草案の話が、朝日にでていたが、主権在民ではなく、権力に都合のいいものになっているという。よくぞ、こんな草案を作ったものだ。表現の自由だって、ばっちり制限を加えることを忘れない。どこまで、欲深なのか。社会をどうすればよくなるのか、人類のゆく道はいかにあるべきか、などの話ではない。いかに、統治するか、弾圧の口実を確保するか、なのである。発想が全然違うのである。
そうしたことは、評論家どもは言わない。隠すのである。対抗するのは、健全な世論であるが、これがまたすぐ騙される。ちょっと、ダラシがない面も否めないのである。
今度の選挙はまさにそういう結果となった。評論家どもが、今、結構本音の祝詞を述べている。よくよく見て、聞いておくことだ。中立なんかではない、その本質を。