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浪速ともあれ、熊野街道1

2013年05月07日 21時43分26秒 | ウォーキング

さて、「連れもて行こら、紀州街道」に続いて、
今度は熊野街道のお話です。

蟻の熊野詣といわれるほど大勢の人が
こぞって熊野に詣でたのが、
鎌倉から平安時代にかけて。
そのブームのきっかけとなったのが、
京の都の上皇など、
やんごとなき人々の熊野詣でありました。

西暦でいうと1000年から1200年くらいでしょうか。
そうしたみやこ人が通るにつれて、
道は整備され、王子社が賑わっていきました。
はるか熊野までの苦難の道も
こうして徐々に行き来しやすくなり、
その結果、往来は大勢の参詣の人々で賑わっていった
というわけですね。
そんな道筋は、「熊野街道」と呼ばれ、
今も往時の面影をしのばせるような景色もあって、
歴史ファンの心をとらえて離さない
道となっています。
その熊野街道の陸路の起点である、
大阪は天満の八軒家浜から
熊野に向かって大阪市内を歩いて南下してみました。

題して「浪速ともあれ、熊野街道」始まりです。

普段の平日なら、
ビジネスの人や車であふれかえる大阪市内も、
GWの期間中であればすいているだろうと見越して、
5月2日の朝から歩くことにしました。

持ち物は、地図と飲み物とお弁当、
そして前日にみっちり予習して
見所と確認事項を網羅し、
作成しておいた資料



をいれたショルダーバッグが一つだけ。

リュックだと荷物を出すのに、
いちいち背中から出さないといけないので、
今回は小回りが利くようにと
ショルダーバッグにしてみました。

歩くdoironの御姿は後ほどの回に出て来る予定です。

地下鉄谷町線の天満橋を降り、
OMMビルの出口から1階に出ました。



これまでの街道の雰囲気とは全く違って、
ビルが立ち並ぶ近代的な姿です。

天満橋のスクランブル交差点を
斜めに渡って、道の南側を西へと進みますと、
そこにあるのが、
熊野街道大阪の道標の起点
「八軒家船着場の跡」の道標です。



昆布屋さんの店の前に
ひっそりと立っていました。
(おお~、ガラスにそこはかとなくdoironのお姿が・・・)

そこからもう少し西に行き、
再度、道を北にわたってしばらく行くと

「川の駅はちけんや」

という施設があります。



ここがまさに、当時の八軒家浜あたりです。

京都と大阪を結ぶ三十石船が、
この大阪湾と淀川を結ぶ大川の南岸にある浜で
発着をしておりました。



だから京都の上皇たちも
ここに上陸して、ここから熊野を目指したわけですね。

それを「熊野御幸」というそうです。

あっ、上皇というのは天皇が位を退いてからの尊称ね。

ではサラリーマンが退職してからの尊称は?

「ヒマ」でしょっ!

じゃなくて

「退職者」でしょっ!(え、何これ

このあたりは「八軒家浜」と呼ばれる前は
「渡辺津」と呼ばれていたそうです。
渡る辺りの津(港)ということでね。
なので、日本全国の渡辺さんの姓の発祥地なんだそうです。

少し前、地名からその「渡辺」が消えるとなった時に、
渡辺姓の人たちが猛反対をし、
結局番地の後ろの地番の前に
「渡辺」をつけることで決着したんだとか。

したがって、後で出てくる坐摩神社の住所は
「中央区久太郎町4丁目渡辺3号」となっています。



渡辺さんたちの執念ですね。

今の橋○市長でもこういう粋な計らいは
してくれたでしょうかと、
ふと考えてしまいました。



これは夜の乗下船時の安全のために
地元の町民たちが建てた灯籠を
再現したものだそうです。
昨年建てられたそうで、
道理で少し前のネットの記述とかにはなかったはずです。
実際に現地に行ってみると
新しいことも見つかるもんですね。

ちなみに往時の灯籠も現存しており
それは今は生国魂神社に移されて
あるそうです。



八軒家浜は、今はこうしてビル群の谷間にある場所ですが、
当時はずいぶん賑やかだったようで、
そのことがここに設置されている案内板などに、
昔の絵とともに描かれてありました。



昔の絵と言えば、八軒家浜跡の石碑のあった
昆布屋さんで配られていた資料に
こんなのがありました。


これは荷物の積み下ろしでにぎわう八軒家浜


これは三十石船


そしてこれは当時の天満橋

そんな往時をしのばせる川の駅を後にし、
まずは先ほどちらっと紹介しました
「坐摩神社」に参詣しました。
先ほどの写真にもありましたように
この神社の名前は正式には「いかすり」神社といいます。
doironの好きなイカが祀ってある
ということではなく
神社に置かれてあった
御由緒略記のパンフレットでは
「諸説ありますが、土地又は居住地を
守り給う意味の居所知(いかしり)が転じた名称」と
書かれてありました。

そこは昔の熊野詣の際に、
淀川で船を降りて、まず参拝をする
第1王子社といわれています。

ここから続く熊野街道の各所には
王子と呼ばれる場所が設けられていますが、
ここが一番最初の王子で
「渡辺王子」
とも
「窪津王子」
とも言われています。

大阪府のパンフレットには後者が使われています。

それがここ。



熊野街道から西へ100mほど行ったところに
ひっそりとたたずんでおりました。

旅の安全を祈願し、
種々願い事のお詣りを済ませ、
ようやく街道歩きがスタートします。

熊野街道の起点に向かって
また少し東に戻ると差点に、
こんな道しるべが設けられています。



そして、そこからみた街道道は、
いきなりの急な坂道になっており、



それは当時、そこから先の熊野詣の険しさを
参拝人に予感させるような地形となっていたんだとさ。

次回に続く。


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