ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

もっともっと田原本 2

2018年03月07日 21時12分50秒 | ウォーキング

寺川の堤防に出ると、
そこには宮前橋がかかっています。
ちょっと高い部分なので、
見晴らしが一気に広がりましたね。

田原本も通り川西町を流れ、
北の大和川に注いでいく川です。



なかなかいい眺めですねえ。



開けた田園風景と遠くに見える山々が
この辺りの特徴的な景色ですねえ。

この橋にはこの後また戻ってきますので、
まずはそのまま島の山古墳へと
向かって行きます。



え~っと、こんな道案内より
もうちょっと遺跡の案内を
お願いしたいなあ。
ていうか、方向は全部同じやないかあ。

古墳はこっち方向です。
地図に従って、こんな交差点を
右に入っていきます。



もう向こうに古墳の樹木が
見えていますねえ。

空き地にデンと並べている
太陽光やそのすぐ横にある
地蔵さんなんかが、



最近はこういう景色が歴史ある
地域の特徴ですねえ。
広い土地を活用する今風の取り組みと
歴史が入り組んでいます。

右に曲がって進んでいくと、
おお古墳が見えてきました。
周りをお堀で固められた
巨大な前方後円墳ですねえ。





被葬者はわかっていませんが、
副葬品などから見て女性だそうで、
大王級の人の貴重な巫女じゃないか
といわれています。

この古墳には「造り出し」と
いうのがあるといわれています。
円と方の合わさったあたりの
くびれ部分に造り出しと
いわれる部分が設置されている
ことが最近確認されたようです。



周りから見ている分には
あまりわからなかったですけどね。
堺の古墳を歩いているときには
知らなかった造りですねえ。

全国で4600基程の前方後円墳で
約100基あまりが観察されているようで、
その意味ははっきりと解りません。

祭祀を行う場所であるとか、
殉死者の埋葬の場とか
言われたりしています。

この辺り古墳群も多く、
三宅古墳群といわれたりしているようです。

このお堀には沢山の鳥がいますねえ。



そうそうまたこの辺りの町名が
「唐院」といわれているのも
面白そうなので調べてみたら、
やはりいわれがあるようでした。

はっきりしたところはわからないのですが、
「道陰」から来ているとか、
入れ物の生産者
陶工から来ている「陶院」、
あるいは「唐」の人が住み着いた
などいろんな説があるようです。

地名にひそむ歴史って
時々面白いものがありますねえ。

そしてこの古墳の横には
「比売久波神社」があります。



この神社の横には「箕輪寺跡」が
こんな風に残っています。



かつては比売久波神社は
この寺の僧侶によって
祭祀が行われていたそうですが、
いまはもう本尊も
倒壊しているそうです。



そこにあった説明版によると、
本堂はこんな感じだったそうで、



明治のころにはこの本堂が
小学校になっていたそうです。

え~doiron生まれ故郷である村には、
村の者みんなで管理する
「高龍寺」という寺があります。

ボロボロのお寺だったのですが、
祭りの時に団体が火事を出して倒壊しました。
本尊部分だけは燃えずに、
仏像はすべて無傷だったのですが
建物だけを建て替えたのです。

その以前の建物というのが、
村のそろばん教室でした。
子どもの頃はしょっちゅう
通ったお寺でしたね。

あれは、こういう施設というのが、
教育の場であったりした
よくある姿の名残だったかも
しれませんね~。

村の寺はなんか頭の中に
寺子屋みたいな
イメージが残っています。

今回歩いている川西町にとっては
貴重な村人の暮らしの
痕跡だったんでしょうねえ。

こうして、古墳、神社、寺の固まって
残っている大字唐院の見学は終わりです。

ここから、また先ほどの
宮前橋の方へと戻っていきましょう。

あ、これが川西町のマンふたですねえ。



ケヤキとコスモスがデザインされています。

ここの町の木と町の花なんですが、
実はこの町で一番人気なのは、
生産量トップの地域名前がついた
「結崎ネブカ」なんだそうです。

ネギの花のマンふたとか
あったら面白いのになあと思いつつ、

続く