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全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

浪速ともあれ、熊野街道6

2013年05月15日 21時41分20秒 | ウォーキング

天王寺から南は、阪堺電車
すなわちチンチン電車(略して「チン電」)沿いに歩きます。



そうそうここから道標の形も文字も変わります。
これが6.0kmの道標。



阿倍野の交差点付近です。
字がちょっとポップな感じになりました。

あべののこの界隈は、
昔ながらのお店もあり、
頑張っておしゃれにしようとしている気持はわかるのですが、
どうしてもレトロな感じは払拭しきれませんね。

6.8kmの道標のある



「松虫」の交差点には、





こんな歴史の道の案内板もありました。

これで気になるのは、
その交差点の名前にもなってる
「松虫塚」と「佐藤魚丸」ですねえ。

「松虫塚」はといいますと、その由来は
諸説があって確定はしていないそうです。

一説が、後鳥羽上皇には身の回りのお世話をする官女がいて
その名前を松虫、鈴虫といったそうです。
あれ?たいていは三人官女といいますよねえ。
もう一人はというと、
これが「あぶら虫」。

「松虫、鈴虫、あぶら虫」

というのはウソです。
(でもこの頃にはゴキブリもいたんでしょうねえ
中世史とかであまり出てこないのは何故でしょう)

とにかくその官女の松虫が、
晩年にここに居を構えたからだという説があります。

また別の説では、ある旅人が
松虫の鳴き声に魅かれて迷い込んだところ、
なぜか亡くなってしまったという話もあります。

松虫は童謡でもおなじみで
「チンチロ、チンチロ、チンチロリン」と鳴く虫です。

しかし、実際は
多分そんな風情のある話ではなく、
きっと、どんぶりにサイコロを放り込むサイコロばくちの音に引き込まれ、
身ぐるみはがされて死んだと
そんな話の方がふさわしいように思うのですが・・・。
松虫の人にしかられますね。

いずれにしても「松虫」の由来は確定しておりませんが
熊野街道とは直接の関係はなさそうです。

そして、もう一つの「佐藤魚丸」ですが、
これも、江戸時代の狂歌師、浄瑠璃作者の名前ですから
やはり熊野街道とは関係ないでしょう。

ということで、この二点はチラ見だけにしておきましょう。

松虫からは、昔ながらの面影をとどめた
街道らしい道になります。



これはそこにあった7.0kmの道標と道しるべです。





ここまで昼食、寄り道含めて
5時間弱が経過しております。
予定では3時間くらいでの通過のはずだったのですが、
寄り道と迷ったのが長かったので
かなり遅れてきております。

そして7.1kmのところで



到着するのが、「阿倍晴明神社」です。



阿倍晴明、陰陽師で有名なこの人は、
以前このブログでも書いたし、
ジダンのブログでも紹介されている
聖神社で出会った白狐と結婚した
阿倍保名の子どもだといわれています。

当時の天文学なども学び、
自然の動きを予測したことから
不思議な力を持っているとされていました。
占いの能力にも長けていたといわれています。

まあ、当時のゲームなんかがあれば
きっと

「晴明もらえる!」

みたいなキャラクターだったんでしょう。

この神社が彼の生誕地伝承地です。



本殿は大正14年に復建されたものなので、



doironの親父よりは新しいものです。

そしてこれが彼の産湯に使った井戸。



その横には彼のお姿も母親とともに建てられてありました。



そしてこの神社のすぐ横にあるのが、
大阪市内で唯一現存している王子社跡である

「阿倍王子神社」。



しかしこの「阿倍」をパソコンで打つ時は混乱するねえ。
今の総理大臣は「安倍」だし、
俳優は「阿部寛」だったり
「阿部サダヲ」だったりとややこしい。
やはりこの場合「阿倍野」の「阿倍」
と憶えるのが一番いいかもね。

その阿倍王子神社には
「第二王子社」の碑があります。



多分「窪津王子」の次という意味でしょう。
この際「坂口」、「郡戸」、「上野」の各王子は無視されています。
なんかこのあたり、それぞれの言い分がありそうですが、
ま、その辺は気にしないでおきましょう。



境内のクスノキがおごそかな雰囲気をかもしておりました。

この神社を出てしばらく行くと左手に

「晴明丘公園」があり、


そこに「経塚」が建てられてありました。



摂津名所図会にも描かれてあり、
聖徳太子が一字一石経を埋めたとか、
空海が写経を埋めたとかいわれています。

通常、経塚とはそういうものなのですが、
このあたりには、他にも
「大名塚」や「小町塚」「播磨塚」など、
古墳の存在をうかがわせる塚が残っているそうです。

この熊野街道沿いには
堺市でも多くの古墳が見られるように、
今は手塚山古墳しか残っていない大阪市内にも
もしかしたら地方の豪族の他の古墳とかがあって、
経塚もそこに設けられたひとつかもしれない
とも言われていますが、
真相は定かではないようです。


さて、ここまで5時間強をかけて
八軒家浜から歩いてきました。

直線距離にすれば8キロ足らず、
寄り道を入れれば、活動量計から推測して
約16キロくらいでしょうか。

今回はせめて大和川までと思っていたのですが、
ここで終了です。

レトロな駅の表示のあったチン電は



北畠の駅から、どこまで乗っても200円の運賃で
浜寺公園経由で帰宅したdoironなのでした。

「浪速ともあれ、熊野街道」歩いた部分はこれだけですが
最後に少しだけまとめを次回書いてみます。