学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その2)

2022-12-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

まあ、結局のところ、慈光寺本にしかない記事をどこまで信頼できるか、という話となりますが、これは大河ドラマの時代考証を担当された長村祥知氏が強く主張されるところの、義時追討の「院宣」の問題と同じ状況ですね。
史実としては、北条義時追討の「官宣旨」が出されたことは間違いないのですが、『承久記』の諸本には、後鳥羽院は東国の有力御家人に七通の院宣を送ったと書かれています。
そして、慈光寺本『承久記』だけは院宣は八通だとし、かつ、その文面まで引用しています。
大河ドラマには「官宣旨」は登場せず、「院宣」だけ、しかも八通だったので、長村説をそのまま採用した内容になっていましたね。
さて、古文書学に疎い私は、長村氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)を読んで、いったんは長村説に納得してしまいました。

「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753

しかし、呉座勇一氏が『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)で長村説を批判されているのを知り、過去の自分の投稿を読み直してみて、現在では、やはり院宣は慈光寺本作者による創作と考えるのが正しいのではないか、などと思っています。
呉座説の骨子はリンク先で読めます。

「ついに完結!鎌倉幕府方はいかにして承久の乱を制したのか?」
https://gendai.media/articles/-/103332?imp=0

ところで、慈光寺本の特徴の一つとして、義時が極悪非道の強烈な野心家として造型されている点が挙げられます。
即ち、実朝の横死を知った義時は、「朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」(p304)と考えます。
そして、泰時からの勝利の報を聞くと、「是見給ヘ、和殿原。今ハ義時思フ事ナシ。義時ノ果報ハ、王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生マレテリケル」(p352)などと喜んだりします。
要するに義時はものすごく嫌なタイプとして描かれていますが、他の諸本ではそんなにひどく描かれている訳ではないんですね。
そして、「逆輿」エピソードは、こうした義時像とは極めて親和的です。
まあ、私自身は慈光寺本の義時像はあまりに戯画化されているような感じがして、全くリアリティを感じることはできません。
そのため、「逆輿」エピソードもあまり信頼できないですね。
なお、一般論として、慈光寺本は諸本の中で最も古く、従って比較的信頼できるのだ、みたいなことを言われる人もいますが、古いといっても、土御門院配流の記事で「此君ノ御末ノ様見奉ルニ、天照大神・正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン」との言い方は後嵯峨践祚を知っているように見えるので仁治以降、という話です。(久保田淳解説、p611)
二十年以上経っていたら、事実の記録か否か、という観点からは、他の諸本とたいして変わらないような感じがしますね。
以上、あまりまとまらない議論でしたが、「逆輿」の慣習がどこまで遡るかなど、もう少し知識を深めてから、改めて検討してみたいと思います。
なお、『とはずがたり』には、鎌倉幕府第七代将軍惟康親王の鎌倉追放の場面に、

-------
 さるほどに、幾ほどの日数も隔たらぬに、鎌倉に事出で来べしとささやく。誰がうへならんといふほどに、将軍都へ上り給ふべしといふほどこそあれ、ただ今御所を出で給ふといふをみれば、いとあやしげなる張輿を対の屋のつまへ寄す。丹後の二郎判官といひしやらん、奉行して渡し奉るところヘ、相模の守の使とて、平二郎左衛門出で来たり。
 その後先例なりとて、「御輿さかさまに寄すべし」といふ。またここには未だ御輿だに召さぬさきに、寝殿には小舎人といふ者のいやしげなるが、藁沓はきながら上へのぼりて、御簾引き落しなどするも、いと目もあてられず。

http://web.archive.org/web/20150512020204/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-6-shogunkoreyasu.htm

とあって、「逆輿」での流罪ですね。
証言者が後深草院二条だという問題はありますが、さすがにこんなところでは嘘はつかないだろうと思います。
この記事は『増鏡』にも、

-------
 其の後いく程なく鎌倉中、騒がしき事出できて、みな人きもをつぶし、ささめくといふ程こそあれ、将軍都へ流され給ふとぞ聞ゆる。めづらしき言の葉なりかし。近く仕まつる男・女いと心細く思ひ嘆く。たとへば御位などのかはる気色に異ならず。
 さて上らせ給ふ有様、いとあやしげなる網代の御輿をさかさまに寄せて乗せ奉るもげにいとまがまがしきことのさまなる。うちまかせては都へ御上りこそ、いとおもしろくもめでたかるべきわざなれど、かくあやしきはめづらかなり。

http://web.archive.org/web/20150513074932/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-koreyasushinno.htm

という具合いに引用されています。
『とはずがたり』によれば、「先例」として「御輿さかさまに寄すべし」とのことですから、第五代将軍・藤原頼嗣、第六代将軍・宗尊親王も「逆輿」だった可能性が高いですね。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に... | トップ | 福島県北部海岸沿い駆け足南... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事