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三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その1)

2022-04-11 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 4月11日(月)09時11分36秒

恒明親王問題を理解するためには、

入門編:三浦周行「第九十二章 後深草、亀山両法皇の崩御」(『鎌倉時代史』改訂版、1916)
初級編:三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究 第一輯』、1922)
中級編:三浦周行「両統問題の一波瀾」(『日本史の研究 第二輯』、1930)
上級編:森茂暁「「皇統の対立と幕府の対応-『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって-」(『鎌倉時代の朝幕関係』、1991)

という具合いに、関係論文の発表順に従って読み進めると良いですね。
さて、入門編はもう少しだけ残っていて、

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一流の御暗闘
 亀山法皇が、恒明親王を儲弐(ちょじ)に立てんと宣へるは天皇に皇子ましまさゞりしを以てなり。然るに徳治元年、天皇の皇子(邦良親王)御誕生あられたり。加之、後宇多上皇は尊治親王に御望を繋け給ひたれば、法皇の崩御後、曩日(のうじつ)の勅約を履行し給ふの思召ありとは拝せられず。
 四月、権中納言にして評定衆なる吉田定房は上皇の御使として鎌倉に赴けり(彼れは是月上表して其検非違使別当を辞せしが、六月、院執権を命ぜられ、十月、辞状を返されたり)。然るに翌月には、前権中納言藤原頼藤、昭訓門院の御使として鎌倉に赴き、尋で父の喪に遭うて帰京せしが、七月、復幕府に使せり。彼れの使命は蓋し恒明親王儲弐の事について亀山法皇の御素意を示し給ひ、幕府の協賛を求められしものならん。明年正月に至り、東使二回に上京せしことあるも、其要務の何たるを弁ぜず。

持明院統の御活動と為兼の操縦
 持明院統たるもの、豈に風馬牛相関せられざるを得べけんや。二月、前権中納言平経親の鎌倉に使せるは、伏見上皇の院旨を承くるものならん。是に於て持明院統の形勢も亦(また)頓(にわか)に活気を呈し来れるを見る。
 恐らくはこれ上皇の寵臣京極為兼の操縦に出づることなるべし。彼れは嘉元々年閏四月、幕府の為めに赦されて配所佐渡国より召返され、伏見上皇の寵遇旧の如し。愛君の志最も篤しと称せらるゝ彼れは、果して如何なる術策を以て、一流の頽勢を挽回せんとは試みるべきぞ。

伏見上皇と昭訓門院との御接近
 是時に当りて、余は奇異なる一現象を看過すること能はず。何ぞや、伏見上皇と昭訓門院との御接近これなり。頼藤の再び鎌倉に赴くや、彼れは女院の御使命を奉ぜるに拘らず、上皇より吉服を賜はり、これを著して其途に上れるなり。当時女院御所なる室町殿に於て、御経供養を行せられ、又仏供養を営ませられて、法皇の御冥福を奉薦せられしに、伏見、後伏見両上皇の臨幸あらせられ、為兼亦参仕せるを以て見るも、天皇の行幸、後宇多上皇の御幸なかりしは果して無意味なりとなすべきか。思ふに、女院は恒明親王の御事より後宇多上皇と隙を生じ給ひしを見て、為兼は奇貨措くべしとなし、巧みに女院の御歓心を得て、万里小路一流を離間し中傷し、これに依りて漁父の利を占めんと企図せしものならん。

http://web.archive.org/web/20081229223946/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-kamakura-92.htm

とあります。
ただ、「亀山法皇が、恒明親王を儲弐に立てんと宣へるは天皇に皇子ましまさゞりしを以てなり。然るに徳治元年、天皇の皇子(邦良親王)御誕生あられたり」とあるのは誤りで、後二条天皇(1285-1308)皇子の邦良親王は徳治元年(1306)ではなく、正安二年(1300)生まれです。
後宇多院は後二条天皇に皇子が誕生しているにもかかわらず、亀山院の無茶な要求をいったんは受け入れた訳ですね。
また、京極為兼の役割についても疑問がありますが、それは上級編で検討します。
ということで、続いて初級編、三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究 第一輯』、1922)に入ります。
ここで、両統問題の発生時に遡って、もう少し詳しく事情を見て行きます。

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 第一節 両統問題の研究

 大覚寺、持明院両皇統の皇位に関する争は、実に我国史の一大問題なり。両統迭立の策は、鎌倉幕府が居中調停の目的を以て案出すると共に、其採納を朝廷に強ひしものにして、鎌倉時代の後期に於ける朝幕関係の一大要件なり。
 本問題は其性質として、両統側及び幕府側の史的材料を同一程度に蒐集し、虚心平気に其主張を看取し、然る後、最も公平なる判断を下すにあらざれば、到底明快なる解決を与ふるに由なきなり。然るに両統の争は、終に一方の勝利に帰し、鎌倉幕府亦覆滅したりしかば、これに関する史料も、彼れに詳らかなることも此れに麁なれば、公平にして適当なる判断を得るの資料に乏しく、吾人をして転々隔靴掻痒の歎をなさしむ。
 特に史学研究上第一位を占むべき根本史料の存するもの少きは、一層の困難を加ふるなり。縉紳家の日記は例に依りて朝廷日常の儀式に関する記事に豊富なるも、政治上の重要なる案件に至りては「委旨不能記尽」といひ、「記而無益」「不及記付」「不遑記録」などゝいひて、簡単なる没要領の文字を臚列するを例とせり。
 これ当時にありては自ら忌諱に触るゝを恐れしにも依るべしとはいヘ、又此種の事件が常に秘密の間に行はれて、外間に漏洩すること少かりしにも依らすんばあらず。これを朝幕間の交渉に視るも、幕府の使節の提供する事書即ち覚書の文意は、平々凡々何等の危険分子を認めざるを例とするも、突如として平地に風波を起すが如き波瀾のこれより生ずるを見れば、彼申次を通じて咄嗟の間に秘密交渉の成立するを察すべく、此種の交渉は双方の口頭に依りて弁ぜられて、これを記録に上す場合、極めて少かりし為め、少数の当事者以外、事件の真相を窺ひ知るに由なく、且つこれを徴すべき記録の欠乏を来たさしめたりしなり。
 此くの如く秘密の鍵が少数者の手にありて、一般に知られざりし丈外間に揣摩憶測の盛んに行はるゝを禁ずべからざるは、古今の通態なり。本問題の如きも、亦同一なる事情の下に、一般に事実として認められ居るものゝ中には、此種の街談巻説に基くと覚しきもありて、少しく科学的研究を加ふる時は、忽ち其根底の薄弱なるを発見すべし。
 本問題につきて後世叙述し論断せるものなきにあらずと雖も、此くの如き第二第三流の史料に拠れるものは、史実としても、史論としても、到底吾人の首肯に値ひせず。両統の争議の原因の如き、両統迭立制成立の時期の如き、本問題の第一義たる事項にして、猶ほ且つ曖昧模糊の裡に葬られ居るの如き、其他枝葉の問題に至りては、不明の部分一にして足らざるなり。
 星野博士は去明治三十一年中史学会に於て両統送立に関する研究の結果を発表せられ、これが論文は同年四月以後の史学雑誌に連載せられたり。其考証の該博にして議論の精緻なること、固とより従来世に現はれしものゝ比にあらず。就中本問題の経過にして世人の注意に上らざりしものを詳叙せられ、且つ従来の伝説の根拠なきを論難せられし部分の如きは、吾人後学を啓発せられしこと最も多大なりしを覚ゆ。余は今に至るも本問題の一権威として敬意を表するものなり。
 唯材料の取捨につきては、例せば余りに増鏡の記事を偏重せられたりしが如き、多少の遺憾なき能はず。特に同博士の論文に閑却せられたる材料及び右論文起草後に発見せられたる新材料の為め、此有盆なる論文に補修を加へざるべからざるものあり、これに依りて論旨の変更を要するに至りしが如きは、研究の進歩に於て免るべからざるところにして、同博士と雖ども、此点に於ては、強ち前説を支持せんことを努めらるゝものにあらざるべし。
 本問題研究の順序としては、先づ両統争議の原因其者を闡明するを要し、又これが方法として、両統側の主張に向かつて、最も公平なる観察批判を下さんことを要す。

http://web.archive.org/web/20081229143100/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm

三浦周行が史料に基づいてきちんとした「科学的研究」を始める前は「第二第三流の史料」に依拠した「揣摩憶測」が跋扈していた訳ですが、その中でも特に『増鏡』の影響が強かった訳ですね。
ただ、三浦の批判にもかかわらず、『増鏡』の影響は根強く残り、上級編の森論文においてすら、その呪縛から逃れてはいないように見えます。
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