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雉岡恵一氏「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動」(その3)

2023-12-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
長村祥知氏の「承久の乱と歴史叙述」(松尾葦江編『軍記物語講座第一巻 武者の世が始まる』所収、花鳥社、2020)によれば、「前田家本は、室町幕府を開創した足利氏の周辺で成立したという理解が有力」で、流布本との関係については、

 A 共通の祖本を想定する兄弟関係・従兄弟関係とする説
 B 一方から他方が成立した親子関係とする説

があり、更に後者には、

 ①前田家本→流布本
 ②流布本→前田家本

という説があって、以前は長村氏もBの②、即ち流布本が先行し、前田家本は流布本を改変したとの立場であったものの、近年、原田敦史氏(東京女子大学教授、1978生)がB説を批判し、「共通祖本から枝分かれした兄弟関係」説を主張され、長村氏も「原田氏の論は説得力が高く、基本的には妥当な見解」(p216)と考えるようになったのだそうです。

https://www.twcu.ac.jp/main/academics/sas/teacherlist/harada.html

原田氏の『承久記』に関する論文のうち、「前田家本『承久記』論」(『日本文学』119号、2023)は国会図書館サイトからのリンクでPDFで読めるので、私もざっと読んでみましたが、慈光寺本が「最古態本」との前提の下、西島三千代説の延長での議論なので、私はあまり感心しませんでした。

「前田家本『承久記』論」
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000025-I008765572-00

ただ、「かつて前田家本は流布本を改作したものだといわれたことがあったが、それが成り立たないことは論理的にも実例の上からも明白」(p20)であることを論証されたらしい原田氏の論文は未読なので、それを見てから、必要に応じて検討したいと思います。
私には、「木造の人丸」ひとつとっても「前田家本は流布本を改作したもの」であることは自明に思われるので、原田氏の「論理的にも」云々は非常に奇妙な議論のように感じます。
ま、それはともかく、原田氏のような立場もあるので、流布本と前田家本で内容的に重複する記事に関し、論点に応じていずれを選んでも良いのかもしれませんが、しかし、雉岡氏が「庄四郎」については流布本、「藤四郎入道」については前田家本と使い分けるのは一貫性を欠く態度のように思われます。
前田家本にも流布本の「庄四郎」に対応する記事はありますが、それは、

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一院仰けるは、「義時が為命をすつる者東国にいかほどか有なんずか。朝敵と成て後何ほどの事有へき」ととはせ給ひけれは、庭上ニなみ居たる兵ども推量候ニ幾クか候べきと申上る中に、城四郎兵衛なにがしと云者進み出て申けるは、「色代申させ給ふ人々かな。あやしの者うたれ候だにも命すつるもの五十人百人は有ならひにて候。まして代々将軍の後見日本国副将軍にて候時政義時父子二代の間、おほやけ様の御恩と申、私の志をあたふることいく千万か候らん。就中、元久畠山をうたれ建保ニ三浦を滅しゝより以来、義時が権威いよ/\重してなびかぬ草木もなし。此人々の為ニ命を捨ル者ニ三万は候はんずらむ。家定も東国にだに候はゝ義時が恩を見たる者にて候へば死なんずるにこそ」と申せば御気色あしかりけれ共、後ニハ色代なき兵也と思召合られけり。
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というものです。(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本承久記』、汲古書院、2004、p232以下。ただし、原文は読みづらいので、私意で句読点と括弧を付加)
これと流布本を比較すると、

(1)登場人物は「兒玉の庄四郎兵衛尉」ではなく「城四郎兵衛なにがし」。ただし、「家定」は共通。
(2)三浦胤義の「朝敵となり候ては、誰かは一人も相随可候。推量仕候に、千人計には過候はじ」という具体的は発言が消えている。
(3)「平家追討以来、権大夫の重恩」が「代々将軍の後見日本国副将軍にて候時政義時父子二代の間おほやけ様の御恩」と大袈裟な表現となっており、更に「私の志をあたふることいく千万か候らん」も付加。
(4)「就中、元久畠山をうたれ建保ニ三浦を滅しゝより以来、義時が権威いよ/\重してなびかぬ草木もなし」が付加されている。
(5)「如何なる事も有ば、奉公を仕ばやと思者社多候へ。只千人候べきか。如何に少しと申共、万人には、よも劣り候はじ」が「此人々の為ニ命を捨ル者ニ三万は候はんずらむ」と増加。

という具合に、全体的に詳しく、というか少々くどい表現になっていますね。
ただ、前田家本では「城四郎兵衛なにがし」が三浦胤義を直接批判する形にはなっていないので、「庄四郎」(ないしその縁者)と「藤四郎入道」を同一人物に比定する雉岡氏の立場にとっては前田家本の方が都合が良さそうです。
しかし、何といっても登場人物が「城四郎兵衛なにがし」ですから、「庄」と「城」で音は通じるものの、前田家本の引用は躊躇されたのでしょうね。
以上、前田家本との関係で細かなことを言ってしまいましたが、私は雉岡論文の「三 承久の乱直後の備前国の動向と庄氏」以降は非常に高く評価できるものと考えます。
雉岡氏が紹介された史料で、承久の乱後に「庄四郎」が実在することが明らかになりましたが、これは流布本に描かれた「兒玉の庄四郎兵衛尉」と同一人物と考えてよさそうです。
従って、私は「彼は無駄死を恐れ、幕府方に逃亡したのではないだろうか」(p3)との雉岡氏の見解に賛成します。

https://www.city.honjo.lg.jp/material/files/group/28/2-kijioka.pdf
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