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小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その4)

2022-04-10 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 4月10日(日)09時38分27秒

後宇多院は文永四年(1267)生まれで母は洞院実雄の娘・佶子(京極院、1245-72)、恒明親王は嘉元元年(1303)生まれで母は西園寺実兼の娘・瑛子(昭訓門院、1273-1336)ですから、二人は実に三十六歳違いの異母兄弟ですね。
親子というより、当時としては祖父と孫くらいの世代差があります。
何故に最晩年の亀山院が恒明親王を皇太子とすることに拘ったのかについて、私もあれこれ考えてみたことがあるのですが、未だに謎です。
また、後の展開を考えると、後宇多院が何故に亀山院の無茶な要求に抵抗せず、いったんは了解する旨の文書を出したのかも分かりにくいところですが、まあ、こちらは亀山院がそれだけ迫力のある人物だった、後宇多院は父が怖くて逆らえなかった、ということなのでしょうね。
さて、続きです。

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第三百三十四節 御処分後の波瀾

亀山法皇と西園寺公衡
 西園寺公衡は、先きに後深草法皇の御信頼を蒙り、崩御の後は、御火葬の事を奉行すべきの院旨を奉じたりし程なるに、後其妹昭訓門院が法皇の宮に入り給ひし為めにや、亦亀山法皇の御信任を受け、幕府の請に依りて、父実兼に代りて其申次(関東執権)となり、公武の間に重望を負へり。去年、後深草法皇崩御の時の如き、彼れは御遺誡に依りて、奉行の随一に載せられ、御素服を賜はるべき員数に加へられたりしにも拘らず、事を以てこれを辞し奉れり。然るに亀山法皇崩御の時は、彼れは御素服を賜はり、法皇の御処分状に於ても年来の芳志謝し難しと宣うて、遠江国浜松荘を賜へるのみならず、昭訓門院に賜ひし御処分状には、事毎に彼れに諮られんことを諭し給へり。

http://web.archive.org/web/20081229223946/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-kamakura-92.htm

いったん、ここで切ります。
亀山院と西園寺公衡の関係も分かりにくいところがあって、正応三年(1290)三月、浅原為頼による伏見天皇暗殺未遂事件が起きると、公衡は亀山院が黒幕だと断じて、亀山院糾弾の急先鋒となります。
『増鏡』には、

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 中宮の御せうと権大夫公衡、一の院の御まへにて、「この事はなほ禅林寺殿の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引きたがへ、東かく当代をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事を、心よからず思すによりて、世をかたぶけ給はんの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさば、まさる事や出でまうでこん。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」など、かの承久の例も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「いかでか、さまではあらん。実ならぬ事をも人はよくいひなす物なり。故院のなき御影にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみてのたまふを、心弱くおはしますかなと見奉り給ひて、なほ内よりの仰せなど、きびしき事ども聞ゆれば、中院も新院も思し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、しろしめさぬよし誓ひたる御消息など東へ遣されて後ぞ、ことしづまりにけり。

http://web.archive.org/web/20081229223936/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

とあって、亀山院は幕府に弁明の書を送るなどして、この人生最大のピンチを何とか乗り切った訳ですが、まあ、亀山院としても公衡に良い感情が持てたはずもありません。
しかし、浅原事件から十五年後、公衡は亀山院から恒明親王を託されるような良好な関係となった訳で、亀山院はどのようにして公衡を懐柔したのか。
ま、それはともかく、三浦著の続きです。

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後宇多上皇と公衡
 十月、昭訓門院、法皇の為めに御仏事を修し給ふに当り、権大僧都憲基唱導師として説法を行へり。公衡其席に陪してこれを聴聞し、文を作りて感慨を叙す。其中に言ふあり、「凡雖為毎度事、今日殊以不可説々々々、漢家本朝勘句等中、親王御事聊申出之、年少之時、厳親有御事例等多勘之中、正三歳例、寛弘八年一条院御事之時、後朱雀院三歳也、果為継体守文主之由申之、誠以珍重事也」と。これに拠るも、彼れが報効を図らんとするの径路はこれをトするに苦まざると共に、其結果が、必ずしも後宇多上皇の院旨に伴はざるべきことも、亦容易に察し得らるべし。
 十一月、権中納言六条有房は院使として鎌倉に赴けり。それかあらぬか、閏十二月、公衡は院勘を蒙りて籠居せり。彼れの管領に係る伊豆、伊予両国、御厩、鳥羽院及び左馬寮等は、悉くこれを停められたり。而かもこれ実に幕府の執奏に依るといふ。明年二月、復、幕府の執奏に依りて、院勘を免ぜられて出仕せり。
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嘉元三年の『公卿補任』には「前右大臣従一位」の藤原公衡(四十二歳)について、「九月廿七日賜御素服。十二月六日徐服宣下。閏十二月廿二日伊豆伊予両国左馬寮等被召放云々。依院勅勘也。但武家申云々」とあります。
当時の治天の君は後宇多院なので、「院勅勘」としてこうした処分は可能な訳ですが、公衡も関東申次という重職にありますから、勝手に処分はできません。
そこで後宇多院は近臣の六条有房を鎌倉に派遣し、その了解を得た上で処分した訳ですね。
この間、もちろん西園寺公衡側も相当な政治工作をしたでしょうが、結局、幕府は後宇多院を支持する立場を取ります。
ただ、翌嘉元四年(徳治元、1306)の『公卿補任』には、「二月廿日勅免。同廿四日始出仕云々。伊予伊豆両国御厨鳥羽院左馬寮。以五通院宣返賜之。依関東執申也」とあって、幕府は公衡の処分を短期間で終わらせており、一方的に後宇多院に加担した訳でもないですね。
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