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「自戒を込めて」(by 小川剛生氏)

2014-04-08 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 8日(火)10時12分41秒

>筆綾丸さん
桜井英治氏と小川剛生氏は、確かに以前は「義満が光源氏幻想を生きた」みたいな訳の分からないことを口走っていたのですが、少なくとも小川剛生氏はそのような考え方を撤回していますね。
河添房江氏はご存知ないようですが、『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)には次の記述があります。(p257)

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光源氏は先例にならない

 ところで、近年、義満の行動は、源氏物語を意識していたとみる向きもある。とくに光源氏は栄華の絶頂に「太上天皇になずらふ御位」を賜って、以後、「六条院」と院号で呼ばれていることから、臣下が上皇となる先例たり得たとするものである。
 しかし、この一件においては、義満の年頭に光源氏があったとするのはどうであろうか。「太上天皇になずらふ御位」とはいかなるものか、さまざまに穿鑿されてはいる。もっとも、中世最高の水準にある注釈書、一条兼良の花鳥余情が「太上天皇と号せぬばかりにて、院司・年官・年爵・封 戸などは太上天皇に一事かはる所なし。これによりてこの物語に薄雲女院(藤壺中宮)ならびに六条院の御事には太上天皇になずらふるといふ詞をそへたり。これはまことの脱屣(退位)の御門の尊号にあらざるが故なり」と明確にする通り、太政天皇と同格の待遇を与えられたゆえ、院号をもって称されたと解すべきである(女院と同様である)。義満はあくまで尊号を求めていたのであるから、先例とするには足りない。そもそも、後亀山院への尊号宣下すら、荒暦によれば、過去の史実を踏まえたシビアなものであり、物語を先例とするような悠長な雰囲気はなかったであろう。
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まるで他人事のような記述ですが、小川剛生氏は『南北朝の宮廷誌』(臨川書店、2003年)では次のように書かれています。(219p以下)

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 先日、ある中世史研究者の方と話をしていた時、足利義満が『源氏物語』を読んでいたという記録はないか、と尋ねられました。まあ義満が熱中したという明徴はないけれど、あの頃なら梗概書がたくさんありますし、『河海抄』の著者もすぐ側にいますから筋くらいは熟知していたのでは、と答えると、政治的な軌跡を眺めると義満の脳裡には光源氏の姿が浮かんでいたのではないか、周囲の人たちも物語の登場人物そのままではないか、といくつかの例を挙げられました。
 なるほど、光源氏は澪標巻で右大将から内大臣に昇進して権力を掌握し、やがて冷泉帝の実父として(それは絶対の秘密でしたが)太政天皇に准ぜられて六条院という院号を奉られるのですが、これは義満が後小松天皇の父として法皇に准ぜられる過程によく一致します。同じく後小松の准母として女院となった妻の北山院康子(裏松資康の女)は紫の上に対置されます。夫より年長の正妻がいること(義満の正妻は康子の伯母にあたる業子で、義満より七歳上で早く寵を失った)、実子がいないこと、北山に縁が深いことなど、紫の上と奇妙に共通する点が多いのです。
 その驥尾に附していえば、もはやただのこじつけになってしまいますが、二条良基は、光源氏の後見で岳父でもあった摂政太政大臣に相当するようです。(下略)

「北山に集う人々」

ということで、百八十度、見解が変わっていますね。
小川氏は、『足利義満』の上記引用部分に続けて、

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 中世、源氏物語が強い発信力を持ち続けたことは喋々するまでもない。実際、源氏物語を意識したとおぼしき文学作品は枚挙に遑がない。王朝盛代の最良の遺産として、物語の内容は公家の「先例空間」のうちに入り込み、あたかも現実が物語を追うように叙述する手法もとられている。鎌倉時代の宮廷の歴史を源氏物語と重ねつつ描いた増鏡などはその好例であろう。しかし、それは創作という前提があるからで、現実社会において源氏物語の世界を再現したとまでは、断じがたいようである。あらゆる文化的創造の根源に源氏物語があったと見るのは、あながち間違いではないにしても、抑制した姿勢と、丁寧な考証が求められる。自戒を込めて次の文章を読まなくてはならない。「作品に刻印された『源氏物語』の例をどれほど集めてみても、それはそれで貴重な仕事ではあるにせよ、源氏愛好熱の高さは文学としての権威を確かめることなのであって、表現の対象たる個別の行事や儀式が、『源氏物語』を典拠として計画実施されたことの証左にはならないのである」(高田信敬「朱雀院の行幸」)。
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と書かれていて、この「自戒を込めて」の六字を見て、私はニヤニヤ笑ったのですが、果たしてこれだけ読んで小川氏が自説を撤回したことに気づいた人がどれだけいたのか。
最後の高田信敬氏(鶴見大学教授)の論文は森一郎ほか編『源氏物語の展望 第十輯』(三弥井書店、平23)に載ったものだそうですが、小川氏は平成23年(2011)になって、高田信敬氏の教示を受けて初めて自説の誤りに気づいたのですかね。
また、桜井英治氏は今でも「義満が光源氏幻想を生きた」みたいな妄想を抱いているのでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「中世幻想交響曲」 2014/04/07(月) 08:53:17
小太郎さん
http://forkn.jp/book/7378/page/1
佐野眞一氏の『渋沢家三代』は、いま手元になくて確認できないのですが、「にこやかな没落」は、「私の家はほとんど鼻歌まじりと言いたいほどの気楽な速度で、傾斜の上を滑りだした。」(三島『仮面の告白』)や、「平家は明るい。明るさは滅びの姿だろうか?」(太宰『右大臣実朝』)などを意識しているのかもしれないですね。


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むしろ義満が国内でねらっていたのは、『源氏物語』の光源氏、つまり准太上天皇の再来のような立場であったのであろう。自分の妻の日野康子を後小松天皇の准母(女院)とし、義満自身も後小松天皇の父親代わりとなり、臣下の立場を超えた権力・権威をふるおうとしたのである。義満が光源氏幻想を生きたといわれる所以でもある。(中略)
和と漢の文化の統轄者としての義満は、その点でも『源氏物語』の光源氏像の後裔であり、再来であったといえよう。
そもそも、この北山殿行幸じたいが、『源氏物語』の藤裏葉巻の六条院行幸をイメージさせるもので、光源氏のような院政になぞらえた政治支配を、義満が後小松天皇行幸という儀礼空間で確認するものであった。(河添房江『唐物の文化史』134~136頁)
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巻末の参考文献には、三田村雅子氏の例の『記憶の中の源氏物語』などがあり(他に桜井英治氏や小川剛生氏の名もある)、「北山クヮルテット」はクィンテット、セクステット・・・と、野放図な拡がりをみせていますね。現在の日本における「源氏学」の目も眩むような(目の覚めるような?)深遠さ。三島の深遠な表現を借りれば、「暗い衝動のように燃え盛る病的な虚栄(?)」。また、どのような読者層を想定しているのか不明ですが、「准母(女院)」という書き方は、准母と女院が同値であるかのような印象を与えてしまいますね。
蛇足ながら、引用文中の「権力・権威をふるおうとした」ですが、「権威をふりかざす」とは云うものの、権威は Gewalt ではないのだから、「権威をふるう」とは云えないのでは? 権力と権威について、国文学者にヴェーバーのような緻密さは期待できないけれども。

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ところで、清盛をはじめとする平家一族の栄華は、高橋昌明氏により『源氏物語』のとある一族に擬えられているが、誰だかおわかりだろうか。その答えは明石一族である。出家した清盛は明石入道に重なり、国母となった中宮徳子は、明石の君と明石の女御(中宮)の両者を兼ねた役割ということになる。そもそも清盛と明石入道は、播磨守という官歴でも共通している。(河添房江『唐物の文化史』97頁)
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巻末の参考文献によると、これは高橋昌明氏の『平清盛、福原の夢』(講談社選書メチエ)に拠るらしいのですが(未読なので不明ですが)、こうなるともう、室内楽を飛び越えて、歴史学・国文学・美学綯い交ぜの「幻想交響曲」のようで、絶版の名曲「交響曲第1番 HIROSHIMA 」(伝佐村河内守作曲)を密室でひそやかに聴くような感じですね。枯尾花も見様によってはお化けに見える・・・。
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