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「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その10)

2020-03-18 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月18日(水)12時13分23秒

前回投稿では宝治二年(1248)の時点で中院雅忠が四条隆親の影響下にあるような書き方をしてしまいましたが、中院雅忠と四条隆親女「大納言典侍」との婚姻の時期がはっきりしないので、この時点では隆親との関係も分からないですね。
『公卿補任』で雅忠の経歴を見たところ、嘉禎三年(1237)に侍従に任ぜられて以降、それなりに順調に昇進しているので、源通親の孫、久我通光の四男である以上、宝治二年での叙従三位はごく当然の処遇なのかもしれません。
ただ、ちょっと奇妙なのは、『公卿補任』では雅忠がこの年に二十四歳と記されていることで、雅忠は安貞二年(1228)生まれのはずですから、本来であれば二十一歳であり、三年ずれています。
『公卿補任』をずっと追ってみると、正嘉三年(正元元年、1259)までは単純に一歳ずつ加算されていて、同年に三十五歳になっているのに、翌正元二年(1260)、突如として三十三歳になってしまっており、ここで三年のずれが生じます。
以後は再び単純に一歳ずつ加算されて文永九年(1272)に四十五歳で死んでいるので、こちらで逆算すると安貞二年(1228)生まれとなりますね。
まあ、どうでもいいことですが、ちょっと妙な感じです。

中院雅忠(1228-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E5%BF%A0

さて、村上源氏の傍流(俊房流)の源泰光と輔通の伯父・甥が宝治二年(1248)に従三位に叙せられた理由について、四条隆親の影響を想定してみたのですが、あるいはちょっと考えすぎだったのかもしれません。
森幸夫氏は源具親と再婚後に「姫の前」が生み、従って北条朝時・重時の異母弟である源輔通・輔時兄弟には朝時・重時の支援があったことを強調されるので(「歌人源具親とその周辺」、p85以下)、泰光の処遇を含め、そちらでも説明はできそうです。
ただ、もう少し四条家にこだわってみると、泰光の経歴の中で、建仁三年(1203)に「任加賀守(泰通卿知行)」となっている点が気になります。
この「泰通卿」は藤原北家中御門流の藤原泰通であって四条家(藤原北家魚名流)の人ではありませんが、泰通の正室は藤原隆季女であり、四条隆房(1148-1209)と四条隆保(1150-?)の姉妹です。

藤原泰通(1147-1210)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E9%80%9A

ところで、『尊卑分脈』における泰光の記載に若干の混乱があることは(その7)に書きました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd10557d5d5004a8c2490580064024f1

即ち、『尊卑分脈』では師光の子女のうち、僧侶二人と女子(宮内卿)を除くと、俊信・具親・泰光の順に男子がいることになっているのに、俊信に「本名泰光」と付されていて、この二人は重複しています。
泰光は宝治二年(1248)に八十二歳(『公卿補任』)なので、逆算すると仁安二年(1167)生まれであり、具親より年上です。
とすると、長男の「俊信」が後に「泰光」と改名したと考えれば矛盾はなくなりますが、更に「任加賀守(泰通卿知行)」であることを勘案すると、「俊信」は藤原泰通の猶子になるなどして泰通から「泰」の字をもらって「泰光」と改名したのではないかと思われます。
その時期は分かりませんが、泰光は藤原泰通、そして四条家と相当に近い存在ですね。
そして藤原泰通は「源博陸」源通親(1149-1202)とも極めて親しい存在であることが知られています。
とすると、泰光の弟である源具親の名前も気になってきます。
泰光・具親兄弟の父である源師光の「師光」という名前には村上源氏の要素が皆無ですが、これは師光(1131頃生)が父の「小野宮大納言」源師頼(1068-1139)から小野宮第を継承したことを反映しています。
すなわち、血統はともかく、文化的には藤原北家小野宮流の継承者であるとの宣言ですね。

源師頼(1068-1139)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B8%AB%E9%A0%BC

藤原泰通から「泰」、父から「光」をもらった泰光にも村上源氏の要素は皆無ですが、「具親」は泰光と異なり、父師光から一字も得ていません。
「具」は村上源氏が村上天皇の皇子、具平親王(964-1009)から始まったことに由来するので、村上源氏には「具」を含む名前が溢れていますが、「親」はどこから来たのか。
私は、これは源通親ではなかろうかと思います。
師光は九条兼実から「和歌之外無他芸」(『玉葉』治承五年閏二月十四日)と酷評された人物ですが、源通親主催の歌合に参加するなど、歌好きの源通親との接点はかなりあります。
ただ、具親が源通親から一字をもらうほど親しい関係であったと仮定すると、その仮定とどうにも整合性が取りにくい史料があります。
それが、『玉葉』建久八年三月二十日条です。
森幸夫氏の論文から再度引用させてもらうと、この記事をめぐっては次のような問題があります。

-------
 ところで、「かすかなるさまにて」という表現からは具親が世間から忘れ去られた存在であったような印象を受けるが、具親はすでに建久八年(一一九七)に能登守に任じていた。『玉葉』同年三月二十日条に、

  以能登国、中将〔九条良輔〕猶子源具親、<師光入道子云々、>

との任官記事がある。また『公卿補任』建久八年条の藤原隆保項に拠ると、隆保は上階して能登守を辞し源具親を任じたとある。隆保は能登知行国主となったらしい。藤原隆保は自身の分国の国司として具親を任じたのであるから、具親と何らかの関係があったとみられるが、詳細は不明である。また『玉葉』に拠れば、具親は九条兼実の息良輔の猶子となっていたとあるが、良輔は文治元年(一一八五)の生まれであり、正治ころから歌人として活動する具親との猶子関係が成り立つかどうかはなはだ疑問である。具親の生年は不明だが、九条良輔より年下であったとは考えにくいであろう。井上氏は年齢関係から判断して、この猶子関係に懐疑的である。私も具親を良輔の猶子とするのは誤りであると思う。『玉葉』本文に何らかの錯誤が存在すると考えられる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d700cdb46bad37044c1e151617aae601
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