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四月初めの中間整理(その3)

2021-04-05 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月 5日(月)10時24分28秒

『大日本史料 第六編之二』は成良親王が征夷大将軍に任じられた時期について建武二年八月一日と断定していますが、少し調べてみたところ、『相顕抄』に基づくこの記述は信頼性に乏しいことが明らかでした。
この頃まで、私はあくまで国文学の範囲内で『太平記』について何か新しいことを言えればよいな、程度の気持ちでいたのですが、しかし、成良の征夷大将軍就任時期の問題は中先代の乱に際して尊氏が本当に征夷大将軍の地位を望んだのか、という新しい疑問のきっかけとなりました。
更に近時、呉座勇一氏や谷口雄太氏が論じておられるところの「『太平記』史観の克服」という課題にも関連してくることになったので、私の問題意識は国文学というより歴史学の方に集中することになりました。
とにかく従来の歴史学者にとって共通の盲点となっていたのが成良親王の征夷大将軍就任時期のように思われたので、私は改めてこの問題を相当しつこく検討してみました。
結果的に、この問題の解明に最も役立ったのは桃崎有一郎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)という論文なのですが、私の結論は桃崎氏とは異なるものでした。

「(鎌倉将軍府は)制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fd0e1db7797023f427b1678eefaa60e
「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a
「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea248014a2858bfa1018cd6ee6c824e
「得宗の家格と家政を直義が継承」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3beb01268e2e2003427f19077e25c35a
護良親王の征夷大将軍解任時期との関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe78f236a9c90bb5ae313028bd0e3fed
成良親王の征夷大将軍就任時期についての私の仮説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e260a5e387875c10aefd0577bab9121

ここまで来て、南北朝史研究をリードする森茂暁氏と亀田俊和氏が共に注目されている直義下知状を検討する必要が生じ、古文書学には全くの素人で、『南北朝遺文 関東編』を手に取ったことすらなかった私が若干の古文書学的研究(?)をすることになりました。
その結果、私は建武元年二月五日が成良の征夷大将軍就任日の可能性が高いのではないか、という一応の結論を得ました。
これが正しいかはともかくとして、不動の定説であった建武二年八月一日説(田中義成説)は、実際にはかなり脆弱な基盤の上の推論であったことは明らかにできたのではないかと思います。

「前述の直義下知状は、その唯一の例外である」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d81f559d0c26eb98ee65324512ff7c0c
「大御厩事、被仰付状如件、 元弘四年二月五日 直義(花押)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9359c9afe80e23d85454c1e42ee4cf30
人生初の『南北朝遺文 関東編』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b

さて、以上の検討の結果は、意外にも桃崎説に近い部分もあったのですが、しかし、桃崎氏は征夷大将軍という存在を非常に重いものと捉えているのに対し、成良親王に関する近時の諸学説を概観した私は、建武政権期の征夷大将軍という存在は結構軽いものだったのではないかな、という印象を受けました。
建武政権期を生きた人々は征夷大将軍をけっこう軽く認識していたのに、むしろ後世の歴史学者が、それをけっこう重大なものと認識しているのではなかろうか、という疑いが生じてきた訳です。
そういう目でもう少し視野を広げてみると、例えば征夷大将軍を解任された後の護良親王の位置づけなども、ちょっと不思議に思えてきました。
そこで、護良親王の検討を始めました。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22bc2fda80bb8070e6da5425f64f3316
【中略】
征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5290706102cdc152ca6ace8485c7f606
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