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四月初めの中間整理(その6)

2021-04-10 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月10日(土)09時29分20秒

従来、存在そのものが「通説」であった佐藤進一氏は、征夷大将軍が「諸国の武士の帰服をもとめるうえにもっとも有力な無形の権威」であって、尊氏が鎮守府将軍の「称号を与えられたのは、やはり高氏の要望の結果であり、あるいはかれが征夷大将軍を切望したのにたいして、後醍醐はむげにこれを拒むことができずに、一段低い権威の鎮守府将軍を与えたのかもしれない」とされていました。
この点、吉原氏は鎮守府将軍は「有名無実の官職」ではなく、「建武政権下でも鎮守府将軍職は、重要な官職と認識され軍事的権限と不可分の関係にあった」とされます。
私も基本的には吉原説に賛成ですが、ただ、吉原氏は鎌倉時代を通して鎮守府将軍も相当の権威が維持されていたことを前提とされているようです。
しかし、後醍醐は鎮守府将軍を「本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である」といった古色蒼然たる由緒から切り離して、新たな意味を与えたと考える方が自然ではないかと私は思います。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その13)

さて、『太平記』では護良親王も征夷大将軍を強く望んだされていますが、とすると護良が任官から僅か数ヵ月で解任されたにもかかわらず、その時点では特に後醍醐に反抗しなかったらしいことが奇妙に思えてきます。
この点、私は元弘三年の時点で征夷大将軍は別にそれほどの重職とは関係者の誰一人思っておらず、後醍醐は単なる名誉職としてこれを護良に与え、その僅か二・三ヵ月後、後醍醐はそれなりの理由をつけて護良に退任を求め、護良も素直に了解したのではないか、と考えました。
ただ、従来、護良は正式に征夷大将軍に任じられる前に既に征夷大将軍を「自称」していたとされていたのですが、私は「自称」ではないのではないか、と考えるようになり、その場合、「名誉職」に止まらない可能性も想定されます。
この点は、少し後で改めて論じています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)~(その16)

このように十六回に渡り2002年の吉原論文を検討しましたが、この論文は多くの歴史研究者が「建武政権における足利尊氏の立場」を見直す転機となったものの、吉原氏自身はその後、あまりこの関係の研究を深めることがなかったようですね。
私の場合、成良親王の征夷大将軍任官時期について従来の定説に疑問を抱いたことが「建武政権における足利尊氏の立場」に関わるきっかけでしたが、成良親王は『太平記』に記されたその死の状況、すなわち同母兄弟の恒良とともに足利尊氏・直義によって鴆毒により毒殺されたというエピソードでも興味深い存在です。
そして、このエピソードは、同じく『太平記』に記された尊氏による直義の鴆毒による毒殺というエピソードを連想させます。

帰京後の成良親王
同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)~(その3)

私は成良・恒良親王が尊氏・直義に毒殺されたという『太平記』のエピソードを創作と考えますが、そうすると尊氏が直義を毒殺したというエピソードも創作ではなかろうかという疑いが生じてきます。
実はこの点、中世史学界の重鎮と呼ぶべき複数の碩学から清水克行氏のような中堅・若手まで、極めて多くの歴史研究者が『太平記』の直義毒殺エピソードを史実と考えていて、ちょっと嘆かわしい状況です。

「直義の命日が高師直のちょうど一周忌にあたることから、その日を狙って誅殺したとする見解もある」(by 清水克行氏) .
峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)(その2)
「歴史における兄弟の相克─プロローグ」(by 峰岸純夫氏)
百科事典としての『太平記』
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