投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月24日(土)11時3611時36分1秒
南北朝初期の大きな歴史の流れを描いているのは『太平記』と『梅松論』だけですが、『太平記』には怨霊ものなどの変なエピソードが多く、それほど変ではない部分でもやたら大袈裟な文飾が多いので、歴史研究者はどうしても『梅松論』を重視する傾向がありますね。
ただ、『太平記』が信用できないからといって『梅松論』が素晴らしい史書かというとそうでもなく、なかなか扱いが難しい資料です。
作者についても、『太平記』は明らかに相当なインテリが書いていて、嘘は嘘として承知の上で、時には嘘を楽しんで書いている感じがしますが、『梅松論』の著者はインテリとは言い難く、自分の立場から見た「真実」を一生懸命書いたけれども、結局、それは誤解だった、みたいなところが多いように感じます。
『太平記』の著者は有能ではあっても誠意はなく、『梅松論』の著者は無能であっても誠意と思い込みに溢れている、といったら言い過ぎかもしれませんが。
『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54
ところで呉座氏が「普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから、この敗戦はよほどショックだったのだろう」と指摘されている部分、『梅松論』の原文では、
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然ると雖も、下御所は尚立帰りて摩耶の麓に御座ありければ、いかにも都にむかひて命を捨つべき御所存なりしほどに、将軍御問答頻りに有りしに依りて兵庫に御帰りあり。
http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html
となっていますが、『太平記』ではこれと直接に対応する叙述はないようです。
しかし、この後の尊氏が乗船して西国に向かう場面では、『太平記』も相当に辛辣ですね。
第十五巻第十三節「将軍筑紫落ちの事」から少し引用してみます。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p481以下)
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千度百度〔ちたびももたび〕闘へども、御方〔みかた〕の軍勢の軍〔いくさ〕したる有様を見るに、叶ふべしとも覚えざりければにや、将軍も、早や退屈したる気色に見え給ひける処へ、大友参つて、「今の如くにては、何としても御合戦よかるべしとも覚え候はず。われらが昨日参り逢ひて候ふこそ、しかるべき御運と覚え候へ。幸ひに船ども多く候へば、ただ筑紫へ御開き候へかし。少弐筑後入道、御方に候ふなれば、九国の勢参らずと云ふ者候ふべからず。御勢多く付きまゐらせ候はば、やがて大軍を動かして、京都に攻められ候はんに、何程の事か候ぶべき」と申しければ、将軍、げにもとや思しけん、やがて大友が船にぞ乗らせ給ひける。
諸軍勢これを見て、「すはや、将軍こそ御船に召されて落ちさせ給へ」と、ののめきて、取る物も取りあへず、乗り殿〔おく〕れじと周章〔あわ〕て騒ぐ。船はわづかに三百余艘なり。乗らんとする人は、二十万騎に余れり。一艘に千人ばかり込み乗りける間、大船一艘乗り沈めて、一人も残らず失せにけり。自余の船ども、これを見て、さのみは人を乗せじと、纜〔ともづな〕を脱〔と〕いて差し出だす。乗り殿れたる兵ども、物具、衣裳を脱ぎ捨てて、遥かの澳〔おき〕に泳ぎ出で、船に取り付かんとすれば、太刀、長刀にて切り殺し、払ひ落とす。乗り得ずして渚に帰る者は、徒らに自害して、磯越す浪に漂へり。
尊氏卿、福原の京をさへ落とされて、長汀の月に心を傷ましめ、曲浦の浪に袖を濡らして、心つくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功高くして、数万人の降人を召し具し、天下の士卒に将として、花の都に帰り給ふ。憂喜忽ちに相替はりて、うつつも夢の如くなり。
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「将軍も、早や退屈したる気色に見え給ひける処へ」とありますが、この「退屈」は気力が屈した様子ですね。
また、兵藤氏の脚注では「大友」は「大友貞宗」となっていますが(p482)、貞宗は元弘三年(1333)十二月に病死しているので客観的には変ですね。
ただ、この場面で「大友」は九州事情に精通した老練な人物として描かれているので、千代松丸(氏泰、1321-62)では些か軽いような感じも否めません。
ま、『太平記』に登場する「役者」としては貞宗がイメージされているようです。
さて、尊氏が大友の船に乗船した後の描写は悲惨ですが、多少の脚色があるにしても、この時の尊氏が配下の将兵を見捨てて逃げ去る敗軍の将であることは間違いありません。
この辺り、『梅松論』では「勢込乗ける有様あはたゞしかりし事共なり」とあるだけで、更に「頼義・義家も奥州征伐の時、七騎になり給ふことあり。始の負は、御当家の佳例なりと申す輩多かりけり」などとありますが、これは強がりも些か度が過ぎている感じです。
この場面では、『梅松論』の作者は撤退時の悲惨な状況を熟知しつつ、敢えてそれを書かない訳で、明らかに尊氏・直義側から戦争を描写している『梅松論』の作者と、「高見の見物」を決め込んでいる『太平記』作者の客観的立場の違いが如実に現れていますね。
『梅松論』では、この直後にも「去程に、供奉仕る一方の大将共の中に七八人京都へ赴くあり。降参とぞ聞えし。此輩はみな去年関東より今に至るまで戦功を致す人々なり。然りと雖も御方敗北の間、いつしか旗を巻き冑を脱ぎ、笠印を改めける心中共こそ哀れなれ」とありますが、『梅松論』の作者はこれら「降人」の名前を知悉しながら敢えて記さない訳で、これも『梅松論』特有の配慮ですね。
南北朝初期の大きな歴史の流れを描いているのは『太平記』と『梅松論』だけですが、『太平記』には怨霊ものなどの変なエピソードが多く、それほど変ではない部分でもやたら大袈裟な文飾が多いので、歴史研究者はどうしても『梅松論』を重視する傾向がありますね。
ただ、『太平記』が信用できないからといって『梅松論』が素晴らしい史書かというとそうでもなく、なかなか扱いが難しい資料です。
作者についても、『太平記』は明らかに相当なインテリが書いていて、嘘は嘘として承知の上で、時には嘘を楽しんで書いている感じがしますが、『梅松論』の著者はインテリとは言い難く、自分の立場から見た「真実」を一生懸命書いたけれども、結局、それは誤解だった、みたいなところが多いように感じます。
『太平記』の著者は有能ではあっても誠意はなく、『梅松論』の著者は無能であっても誠意と思い込みに溢れている、といったら言い過ぎかもしれませんが。
『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54
ところで呉座氏が「普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから、この敗戦はよほどショックだったのだろう」と指摘されている部分、『梅松論』の原文では、
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然ると雖も、下御所は尚立帰りて摩耶の麓に御座ありければ、いかにも都にむかひて命を捨つべき御所存なりしほどに、将軍御問答頻りに有りしに依りて兵庫に御帰りあり。
http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html
となっていますが、『太平記』ではこれと直接に対応する叙述はないようです。
しかし、この後の尊氏が乗船して西国に向かう場面では、『太平記』も相当に辛辣ですね。
第十五巻第十三節「将軍筑紫落ちの事」から少し引用してみます。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p481以下)
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千度百度〔ちたびももたび〕闘へども、御方〔みかた〕の軍勢の軍〔いくさ〕したる有様を見るに、叶ふべしとも覚えざりければにや、将軍も、早や退屈したる気色に見え給ひける処へ、大友参つて、「今の如くにては、何としても御合戦よかるべしとも覚え候はず。われらが昨日参り逢ひて候ふこそ、しかるべき御運と覚え候へ。幸ひに船ども多く候へば、ただ筑紫へ御開き候へかし。少弐筑後入道、御方に候ふなれば、九国の勢参らずと云ふ者候ふべからず。御勢多く付きまゐらせ候はば、やがて大軍を動かして、京都に攻められ候はんに、何程の事か候ぶべき」と申しければ、将軍、げにもとや思しけん、やがて大友が船にぞ乗らせ給ひける。
諸軍勢これを見て、「すはや、将軍こそ御船に召されて落ちさせ給へ」と、ののめきて、取る物も取りあへず、乗り殿〔おく〕れじと周章〔あわ〕て騒ぐ。船はわづかに三百余艘なり。乗らんとする人は、二十万騎に余れり。一艘に千人ばかり込み乗りける間、大船一艘乗り沈めて、一人も残らず失せにけり。自余の船ども、これを見て、さのみは人を乗せじと、纜〔ともづな〕を脱〔と〕いて差し出だす。乗り殿れたる兵ども、物具、衣裳を脱ぎ捨てて、遥かの澳〔おき〕に泳ぎ出で、船に取り付かんとすれば、太刀、長刀にて切り殺し、払ひ落とす。乗り得ずして渚に帰る者は、徒らに自害して、磯越す浪に漂へり。
尊氏卿、福原の京をさへ落とされて、長汀の月に心を傷ましめ、曲浦の浪に袖を濡らして、心つくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功高くして、数万人の降人を召し具し、天下の士卒に将として、花の都に帰り給ふ。憂喜忽ちに相替はりて、うつつも夢の如くなり。
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「将軍も、早や退屈したる気色に見え給ひける処へ」とありますが、この「退屈」は気力が屈した様子ですね。
また、兵藤氏の脚注では「大友」は「大友貞宗」となっていますが(p482)、貞宗は元弘三年(1333)十二月に病死しているので客観的には変ですね。
ただ、この場面で「大友」は九州事情に精通した老練な人物として描かれているので、千代松丸(氏泰、1321-62)では些か軽いような感じも否めません。
ま、『太平記』に登場する「役者」としては貞宗がイメージされているようです。
さて、尊氏が大友の船に乗船した後の描写は悲惨ですが、多少の脚色があるにしても、この時の尊氏が配下の将兵を見捨てて逃げ去る敗軍の将であることは間違いありません。
この辺り、『梅松論』では「勢込乗ける有様あはたゞしかりし事共なり」とあるだけで、更に「頼義・義家も奥州征伐の時、七騎になり給ふことあり。始の負は、御当家の佳例なりと申す輩多かりけり」などとありますが、これは強がりも些か度が過ぎている感じです。
この場面では、『梅松論』の作者は撤退時の悲惨な状況を熟知しつつ、敢えてそれを書かない訳で、明らかに尊氏・直義側から戦争を描写している『梅松論』の作者と、「高見の見物」を決め込んでいる『太平記』作者の客観的立場の違いが如実に現れていますね。
『梅松論』では、この直後にも「去程に、供奉仕る一方の大将共の中に七八人京都へ赴くあり。降参とぞ聞えし。此輩はみな去年関東より今に至るまで戦功を致す人々なり。然りと雖も御方敗北の間、いつしか旗を巻き冑を脱ぎ、笠印を改めける心中共こそ哀れなれ」とありますが、『梅松論』の作者はこれら「降人」の名前を知悉しながら敢えて記さない訳で、これも『梅松論』特有の配慮ですね。
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