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山家著(その4)「直義の二度の敗走」

2021-04-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月26日(月)11時44分10秒

続きです。(p11以下)

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 直義は、建武政権下で従四位下、左馬頭・相模守となる。直義は新政権中枢に参画せず、一三三三(元弘三)年末に京都を離れ、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に赴いた。前々月、北畠親房・顕家が義良親王を奉じて陸奥に赴いており、息子を奉じて地方統治を行なう第二弾であった。鎌倉では、尊氏が人質として残した子息の千寿王(のちの義詮)が武士の中心としての立場を固めつつあった。新田義貞は、鎌倉を攻撃して北条氏を滅亡に導いた主力であったものの、千寿王を支持する勢力に押され、鎌倉を離れて上洛している。直義の鎌倉下向は、鎌倉を中心とする関東を足利氏が掌握するうえで大きな意味を持った。
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成良親王は征夷大将軍を経て皇太子にもなった人で、日本史上でも本当に稀有な経歴の持ち主ですが、誰もきちんと調べていないですね。
『太平記』には同母兄弟の尊氏・直義が同母兄弟の恒良・成良親王を鴆毒で毒殺したという陰惨なエピソードが記されていて、このエピソードが同じく『太平記』に記された尊氏による直義の鴆毒での毒殺エピソードを連想させることもあり、私には成良親王が何とも奇妙な存在に思えました。
そこで、従来の歴史学者にとって共通の盲点となっていたと思われる成良親王の征夷大将軍就任時期を中心に、成良親王の周辺を少し丁寧に調べてみました。

四月初めの中間整理(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74fe33d19ac583e472e42a86751cac5a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c

また、「千寿王を支持する勢力」とありますが、赤橋登子が産んだ千寿王は元徳二年(1330)生まれなので、鎌倉幕府滅亡の時点では僅か四歳です。
「人質」の千寿王が絶妙のタイミングで鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流して、結局のところ「鎌倉を攻撃して北条氏を滅亡に導いた主力であった」義貞を鎌倉から追い出すに至る経緯を見ると、私には同じく「人質」であった赤橋登子の役割が相当大きかったのではないかと思われます。
赤橋登子も研究上の盲点となっている女性ですが、少し詳しく検討してみました。

四月初めの中間整理(その12)(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f1db273cf73164c724151a329f3d535
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/493074c440687d0824d76e2a4d199323

さて、山家著の続きです。(p12以下)

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 室町幕府樹立までの過程で留意したい点として、次に直義の軍事行動を取り上げよう。この間、直義は尊氏とは別行動で二度敗走を経験している。一度は、北条時行軍が鎌倉に進攻した際のこと。鎌倉を明け渡して西走した。三河国矢矧で京都から下向した尊氏軍と合流している。もう一度は、時行の乱平定後に鎌倉にとどまった尊氏に対し、新田義貞軍が追討のため京都から東下した際のこと。直義と有力武将は協議して先行隊を派遣したが、三河国矢矧川で敗れ、ついで直義自身が出馬するも駿河国手越河原で敗れ、箱根山まで退いている。この時尊氏は、後醍醐天皇の意志に背くのは本意ではないと逡巡して鎌倉にとどまっていたが、周囲の説得あるいはみずからの状況判断で出陣を決意、箱根山で直義と二手に分かれた作戦が功を奏し、義貞軍を敗走させた。
 直義の二度の敗走は、軍事の大将としての実力に不安を感じさせ、尊氏の軍事面での統率力と比べると見劣りがする。一方で、新政権に対して不満を感じていた武将たちの意向を集約して、あらたな方向をめざすべく決断し、尊氏を担ぎ上げて成功に導いた政治力は卓抜している。直義のもつ、政権を構想して運営していく力量はすでにこの時点で発揮されているといえよう。
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「周囲の説得あるいはみずからの状況判断で」という書き方は若干微妙な感じもしますが、全体として、この部分は山家氏の独創的見解というより従来からの直義評を整理しただけですね。
『太平記』・『梅松論』に描かれた尊氏の「逡巡」が佐藤進一のような素人精神分析家(?)の不穏当な言説を生む原因になっていますが、「建武二年内裏千首」に寄せられた尊氏の詠歌二首は尊氏の安定した精神状態を語っているように見えます。
このような国文学者の歌壇研究の成果と歴史研究者の認識とのズレをどのように考えるべきか、という問題はもう少し検討を深めて行く予定です。

四月初めの中間整理(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
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