投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月29日(木)18時04分58秒
「頼朝の追善」に入ります。(p20以下)
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尊氏・直義の京都での拠点を検討するなかでも、前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みることができた。新政権は、継承者であることを明示するために、このほかにも多様な場面で、さまざまなしかけを試みることになる。とりわけ、これら前政権の中心人物の死をとむらい、その仏事を主宰することは、衆人にわかりやすいデモンストレーションとなった。前政権の中心人物とは、鎌倉幕府で実権をもった将軍であった頼朝など、ついで鎌倉幕府後半の中心となった北条氏、とくに家督である得宗、そして後醍醐天皇である。
頼朝らの場合は、その死去から年月が経過して、三十三回忌はとうにすぎているため、周忌仏事を開催する機会は少なく、既存のとむらう施設を管理下におく方向で進んだ。頼朝をとむらう施設として、鎌倉には法華堂(右大将家法華堂)があった。生前には頼朝の持仏堂で、現在の頼朝墓がある場所に建てられていたとみなされている。一二四七(宝治元)年、北条氏に立ち向かった名族三浦氏は、敗色濃厚のなか、一族五〇〇人で法華堂に籠り、頼朝の遺影の前で自害して果てた。みずからこそ頼朝の精神を受け継ぐものという意思表明だったのだろう。法華堂は、東国に武家政権を建てた頼朝を象徴する場所として意識されていたのである。
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うーむ。
冒頭に「尊氏・直義の京都での拠点を検討するなかでも、前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みることができた」とありますが、私は納得できません。
おそらく山家氏は、直義邸(三条殿)が「鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたこと」が「(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと」と関係しているとされるのでしょうが、中院通成は公家社会では「源氏の嫡流」である村上源氏であっても、直義が「兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた」武家社会の清和源氏とは全く別の世界に生きていた人です。
従って、村上源氏の公家の邸宅にあった「八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因」とはならなかっただろうと私は考えます。
また、「東山常在光院は、北条氏一門の金沢氏が京都での拠点としていた寺院である」ことは、山家氏の立場では「(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること」と関係しているのでしょうが、これは「金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用している」のですから、「支配の正統性」などといった大袈裟な話にしなくとも、普通の財産相続の論理で説明できそうです。
そして、等持寺・等持院・真如寺といった「足利氏ゆかりの寺院」は源頼朝とも北条氏とも関係ないので、結局、山家氏が検討された「尊氏・直義の京都での拠点」全てにおいて「前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みること」は無理ではないかと思われます。
次に「頼朝をとむらう施設」についてですが、和田合戦(1213)の際には、『吾妻鏡』に足利義氏が朝夷名三郎義秀と一騎打ちをするなど大活躍をしたことが特筆されているものの、宝治合戦では足利家関係者の動向は顕著ではありません。
ただ、義氏は三浦に連坐して滅亡した千葉秀胤の遺領を恩賞として与えられているので、北条氏側に立っていたことは明らかです。
「第一節 鎌倉御家人足利氏」(『近代足利市史』第一巻通史編)
http://web.archive.org/web/20061006211642/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ashikaga-kindai-01.htm
とすると、「頼朝をとむらう施設」である「右大将家法華堂」は、その由緒の語り方によっては必ずしも足利氏にとって素晴らしい場所ではなく、むしろ「不都合な真実」を示唆する場所だったかもしれません。
もちろん「支配の正統性」を過去に求める場合、「不都合な真実」は見ないフリをすればよいだけの話で、たいした問題ではありませんが。
さて、続きです。(p21以下)
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法華堂には、禅衆と呼ばれる僧侶が籍をおいていた。一三三五(建武二)年十二月、建武政権下で鎌倉に下向していた直義は、禅衆たちに立場を保障しており、すでに法華堂を管理する立場にあった。この年八月、鎌倉を一時占領していた北条時行は、三浦半島にあった禅衆の所領を安堵しており、鎌倉支配者にとって法華堂を管理することが重要であったことをかがわせる。こののち、尊氏・直義の共同統治期の法華堂のようすは残念ながら明らかでないが、観応年間(一三五〇~五二)になると、法華堂を僧侶として統括する別当職に、京都醍醐寺地蔵院の院主が任じられる。地蔵院主は、こののち将軍のバックアップを受けて、京都から離れた場所にあるこの職の維持につとめている。幕府は引き続き法華堂を管理下におこうとしていることがわかる。
鎌倉には源氏一族関係の法華堂として、もう一つ、二位家・右大臣家法華堂があった。二位家は、頼朝の妻で頼朝死後に活躍した北条政子、右大臣家は、三代将軍実朝をさす。この法華堂も幕府の管理下におかれていた。直義は、一三四七(貞和三)年に、この法華堂の別当職に醍醐寺三宝院の院主賢俊を任じ、この別当職はのちに三宝院に伝領され、将軍から安堵されている。
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「一三三五(建武二)年十二月、建武政権下で鎌倉に下向していた直義は」云々との表現は、ここだけ読むと若干変な感じがしますが、直義はちょうど二年前の元弘三年(1333)十二月に成良親王を伴って鎌倉に下向しており、下向当初から「禅衆たちに立場を保障」していて、ただ安堵の文書が「一三三五(建武二)年十二月」のもの以外見当たらないということなのでしょうね。
ちなみに直義は同年十一月二十三日に大軍を率いて鎌倉を発ち、二十七日、三河国矢矧で新田義貞軍に敗北、十二月五日、駿河国手越でまた負けて、鎌倉に戻って尊氏を説得して一緒に反撃に出るという慌ただしい日々を送っており、「一三三五(建武二)年十二月」に鎌倉に滞在していた期間はごく僅かですね。
また、「鎌倉を一時占領していた北条時行は、三浦半島にあった禅衆の所領を安堵して」いたとのことなので、「禅衆たちに立場を保障」することは鎌倉の支配者の通常業務であり、尊氏・直義に特有の「支配の正統性」の問題でもないように感じます。
「頼朝の追善」に入ります。(p20以下)
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尊氏・直義の京都での拠点を検討するなかでも、前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みることができた。新政権は、継承者であることを明示するために、このほかにも多様な場面で、さまざまなしかけを試みることになる。とりわけ、これら前政権の中心人物の死をとむらい、その仏事を主宰することは、衆人にわかりやすいデモンストレーションとなった。前政権の中心人物とは、鎌倉幕府で実権をもった将軍であった頼朝など、ついで鎌倉幕府後半の中心となった北条氏、とくに家督である得宗、そして後醍醐天皇である。
頼朝らの場合は、その死去から年月が経過して、三十三回忌はとうにすぎているため、周忌仏事を開催する機会は少なく、既存のとむらう施設を管理下におく方向で進んだ。頼朝をとむらう施設として、鎌倉には法華堂(右大将家法華堂)があった。生前には頼朝の持仏堂で、現在の頼朝墓がある場所に建てられていたとみなされている。一二四七(宝治元)年、北条氏に立ち向かった名族三浦氏は、敗色濃厚のなか、一族五〇〇人で法華堂に籠り、頼朝の遺影の前で自害して果てた。みずからこそ頼朝の精神を受け継ぐものという意思表明だったのだろう。法華堂は、東国に武家政権を建てた頼朝を象徴する場所として意識されていたのである。
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うーむ。
冒頭に「尊氏・直義の京都での拠点を検討するなかでも、前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みることができた」とありますが、私は納得できません。
おそらく山家氏は、直義邸(三条殿)が「鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたこと」が「(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと」と関係しているとされるのでしょうが、中院通成は公家社会では「源氏の嫡流」である村上源氏であっても、直義が「兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた」武家社会の清和源氏とは全く別の世界に生きていた人です。
従って、村上源氏の公家の邸宅にあった「八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因」とはならなかっただろうと私は考えます。
また、「東山常在光院は、北条氏一門の金沢氏が京都での拠点としていた寺院である」ことは、山家氏の立場では「(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること」と関係しているのでしょうが、これは「金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用している」のですから、「支配の正統性」などといった大袈裟な話にしなくとも、普通の財産相続の論理で説明できそうです。
そして、等持寺・等持院・真如寺といった「足利氏ゆかりの寺院」は源頼朝とも北条氏とも関係ないので、結局、山家氏が検討された「尊氏・直義の京都での拠点」全てにおいて「前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みること」は無理ではないかと思われます。
次に「頼朝をとむらう施設」についてですが、和田合戦(1213)の際には、『吾妻鏡』に足利義氏が朝夷名三郎義秀と一騎打ちをするなど大活躍をしたことが特筆されているものの、宝治合戦では足利家関係者の動向は顕著ではありません。
ただ、義氏は三浦に連坐して滅亡した千葉秀胤の遺領を恩賞として与えられているので、北条氏側に立っていたことは明らかです。
「第一節 鎌倉御家人足利氏」(『近代足利市史』第一巻通史編)
http://web.archive.org/web/20061006211642/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ashikaga-kindai-01.htm
とすると、「頼朝をとむらう施設」である「右大将家法華堂」は、その由緒の語り方によっては必ずしも足利氏にとって素晴らしい場所ではなく、むしろ「不都合な真実」を示唆する場所だったかもしれません。
もちろん「支配の正統性」を過去に求める場合、「不都合な真実」は見ないフリをすればよいだけの話で、たいした問題ではありませんが。
さて、続きです。(p21以下)
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法華堂には、禅衆と呼ばれる僧侶が籍をおいていた。一三三五(建武二)年十二月、建武政権下で鎌倉に下向していた直義は、禅衆たちに立場を保障しており、すでに法華堂を管理する立場にあった。この年八月、鎌倉を一時占領していた北条時行は、三浦半島にあった禅衆の所領を安堵しており、鎌倉支配者にとって法華堂を管理することが重要であったことをかがわせる。こののち、尊氏・直義の共同統治期の法華堂のようすは残念ながら明らかでないが、観応年間(一三五〇~五二)になると、法華堂を僧侶として統括する別当職に、京都醍醐寺地蔵院の院主が任じられる。地蔵院主は、こののち将軍のバックアップを受けて、京都から離れた場所にあるこの職の維持につとめている。幕府は引き続き法華堂を管理下におこうとしていることがわかる。
鎌倉には源氏一族関係の法華堂として、もう一つ、二位家・右大臣家法華堂があった。二位家は、頼朝の妻で頼朝死後に活躍した北条政子、右大臣家は、三代将軍実朝をさす。この法華堂も幕府の管理下におかれていた。直義は、一三四七(貞和三)年に、この法華堂の別当職に醍醐寺三宝院の院主賢俊を任じ、この別当職はのちに三宝院に伝領され、将軍から安堵されている。
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「一三三五(建武二)年十二月、建武政権下で鎌倉に下向していた直義は」云々との表現は、ここだけ読むと若干変な感じがしますが、直義はちょうど二年前の元弘三年(1333)十二月に成良親王を伴って鎌倉に下向しており、下向当初から「禅衆たちに立場を保障」していて、ただ安堵の文書が「一三三五(建武二)年十二月」のもの以外見当たらないということなのでしょうね。
ちなみに直義は同年十一月二十三日に大軍を率いて鎌倉を発ち、二十七日、三河国矢矧で新田義貞軍に敗北、十二月五日、駿河国手越でまた負けて、鎌倉に戻って尊氏を説得して一緒に反撃に出るという慌ただしい日々を送っており、「一三三五(建武二)年十二月」に鎌倉に滞在していた期間はごく僅かですね。
また、「鎌倉を一時占領していた北条時行は、三浦半島にあった禅衆の所領を安堵して」いたとのことなので、「禅衆たちに立場を保障」することは鎌倉の支配者の通常業務であり、尊氏・直義に特有の「支配の正統性」の問題でもないように感じます。