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「あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない」(by 新田一郎氏)

2021-04-24 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月24日(土)13時27分30秒

院宣獲得の日程について『梅松論』の方もスピーディー過ぎて変だ、と書きましたが、赤松円心が予め賢俊と示し合わせていたなら不可能というほどでもないですね。
『梅松論』によれば円心は尊氏に献策を二回行っていますが、仮に二月三日の最初の献策の頃までに院宣取得の発想があったとすれば、円心としては尊氏の了解を得る前に賢俊を通じて院宣を取得し、賢俊も近くに待機させておいて、十一日の第二回目の献策で尊氏の了解を得た後、実はもう院宣はもらってあります、とすればよいだけの話です。
円心は先を読む人なので、その程度のことはやっても全然不思議ではないですね。
問題はむしろ尊氏・直義やその周辺の人々にとって、建武三年二月の時点で光厳院の院宣が本当にありがたいものだったのか、です。
先に呉座勇一氏の「もっとも、尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく、この布石が生きてくるのは、少し先のことになる」という見方を紹介しましたが、更に新田一郎氏の見解も見ておきたいと思います。
『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社、2001)から少し引用します。(p112以下)

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尊氏の再起と軍事的勝利

 いったん京都を失った尊氏だが、再起への布石は早くから打たれていた。海路を経て九州へ赴く途中、備後国鞆津(現、広島県福山市)に寄港した尊氏に、持明院統の光厳上皇の院宣が、醍醐寺三宝院の僧賢俊によってもたらされたのである。そのいきさつについて、『梅松論』は赤松円心(則村)の勧めによったものとし、『太平記』は丹波国から摂津国兵庫に逃れた際に尊氏が日野資明に所縁の者を使者として院宣を求めたと記し、また田中義成氏は尊氏が在京していた間にすでに約諾があったものと推測する(『南北朝時代史』)。いずれにせよ日野家出身(資明の兄弟)である賢俊による周旋が大きな意味を持ち、そのことが後に日野家と室町幕府との間に親密な関係が結ばれる端緒となったと考えられる。
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「尊氏が在京していた間にすでに約諾があったものと推測する」田中義成説は『太平記』も『梅松論』もまるで無視したずいぶん大胆な仮説のように見えますが、二月十五日に「備後国鞆津(現、広島県福山市)に寄港した尊氏に、持明院統の光厳上皇の院宣が、醍醐寺三宝院の僧賢俊によってもたらされた」という日程だけを考えると、こうした考え方が出てきても不思議ではありません。
ま、この点は後で田中の見解を紹介した上で少し検討したいと思います。

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 それにしても、この光厳院宣の獲得は、後から振り返るならば、『太平記』が尊氏に「天下ヲ君ト君トノ御争ニ成シテ合戦ヲイタサバヤト思フナリ」と語らせているように、尊氏が後醍醐と訣別し「南北朝の対立」の構図を形づくる画期となったことは明らかと見える。ただ、この院宣そのものの具体的な内容は「新田義貞与党人」の誅伐を命じたものであったらしく、後醍醐の政権を否定したり、直接に敵対するためのものではない。院宣を獲得するまでもなく少なからぬ武士たちが尊氏へと靡くさまが、北畠親房や楠木正成ら後醍醐方の重鎮をたびたび嘆かせており、軍勢動員のために院宣が是非とも必要であったとも思えない。だいたい尊氏は、後醍醐に直接に敵対することには臆病といってよいほどに慎重であり、直義に叱咤激励されながら、展開してゆく事態に次々と巻き込まれてゆくことの不安な心境をしばしば吐露し、悩みふさぎこんでしまうこともたびたびであった。後醍醐と和睦して新田義貞を駆逐することに本意がありながら、状況に流されて天皇に敵対することに対する不安にさいなまれ、戦うことにいまだ確信を持てずにいた尊氏が、院宣に行動の拠りどころを求め、いわば自分に対する言い訳としたようにも思われる。あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない。
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新田氏が「この院宣そのものの具体的な内容は「新田義貞与党人」の誅伐を命じたものであったらしく」としているのは、既に紹介済みの次の文書に基づく推定と思われます。

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〔三池文書〕〇碩田叢史所収
 可誅伐新田義貞与党人等之由、所被下院宣也、早相催一族、馳参赤間関、可致
 軍忠、於恩賞者、可有殊沙汰之状如件、
      建武三年二月十七日     (尊氏)(花押)
       安芸杢助(貞鑒)殿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18f285e6cbdc07c4837e9845bc82df53

たしかに、ここには「後醍醐の政権を否定したり、直接に敵対する」趣旨までは窺うことができず、清水克行氏のように院宣獲得をもって「両統のうちどちらでも構わないから自分に都合のいい天皇を擁立してしまおうという、このときの尊氏の打算的な対応は、その後の南北朝~室町時代の政治に混迷をもたらす"パンドラの箱"を開けるに等しい行為であった」とまで言えるかは疑問です。
また、『大日本史料 第六編之三』の延元元年二月十二日条に掲載された多くの古文書のうち、院宣に言及しているの二つだけなので、「軍勢動員のために院宣が是非とも必要であったとも思えない」という新田氏の評価にも賛同できます。
しかし、新田氏が「直義に叱咤激励されながら、展開してゆく自体に次々と巻き込まれてゆくことの不安な心境をしばしば吐露し、悩みふさぎこんでしまう」、「状況に流されて天皇に敵対することに対する不安にさいなまれ、戦うことにいまだ確信を持てずにいた尊氏が、院宣に行動の拠りどころを求め、いわば自分に対する言い訳としたようにも思われる」としている点、即ち新田氏が尊氏を一貫して「主体性のない男」として描いている点は疑問です。
だいたい、この時点では「普段は冷静な直義」が「ヤケクソになるぐらい」の状態で(呉座勇一氏)、むしろ過酷な戦況にも拘わらず冷静さを保っていた尊氏が直義に戦略的な撤退を助言するような関係ですね。
「あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない」の「それ」が正確に何を指すのかはよく分かりませんが、まるで『太平記』第十四巻第八節「箱根軍の事」に描かれた直義・上杉重能らによる綸旨偽造を連想させるような書き方で、ちょっと陰謀論めいている感じがしないでもありません。
いずれにせよ、私は「主体性のない男」としての尊氏像を「『太平記』史観」「『梅松論』史観」の産物と考えるので、新田氏も「『太平記』史観」「『梅松論』史観」に相当毒されているように感じます。

謎の女・赤橋登子(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4a66157b85d1860818a48f1708b0fd3
「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b

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 しかし、明確な構想をもたないままに尊氏が院宣を求め、それに重い意味を認めたことが、「錦旗」に重みを加えたことは間違いない。足利尊氏に求心点を見出だしつつあった武士たちの期待が、院宣を掲げた「君ト君トノ御争」という看板のもとに、形を変えて位置づけられる。かくして、新しい秩序をめぐる人々の動向が、天皇を基軸として語られる王権の物語の中に繰り込まれてゆく、ひとつのきっかけが与えられたのである。
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「天皇を基軸として語られる王権の物語の中に繰り込まれてゆく」云々は「均衡」という表現が大好きな新田氏らしい発想ですね。
新田氏は笑いの感覚に乏しいので、『太平記』の笑い話に関する新田氏の解釈にはあまり賛同できませんが、新田氏特有の非常に粘り強い、ずるずるべったりした思考は「支配の正当性」を考える上ではそれなりに参考になります。
この点、後で論じたいと思います。

「笑い話仕立ての話」(by 新田一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c1c8532d6547ef109352121cb419b5
『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1b1f8e19748a15aea2b63085b4c9593
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46025f24aba5b546df4fdc2830c7663f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f37c4b29b533c855865aab015a35eee
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「普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから」(by 呉座勇一氏)

2021-04-24 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月24日(土)11時3611時36分1秒

南北朝初期の大きな歴史の流れを描いているのは『太平記』と『梅松論』だけですが、『太平記』には怨霊ものなどの変なエピソードが多く、それほど変ではない部分でもやたら大袈裟な文飾が多いので、歴史研究者はどうしても『梅松論』を重視する傾向がありますね。
ただ、『太平記』が信用できないからといって『梅松論』が素晴らしい史書かというとそうでもなく、なかなか扱いが難しい資料です。
作者についても、『太平記』は明らかに相当なインテリが書いていて、嘘は嘘として承知の上で、時には嘘を楽しんで書いている感じがしますが、『梅松論』の著者はインテリとは言い難く、自分の立場から見た「真実」を一生懸命書いたけれども、結局、それは誤解だった、みたいなところが多いように感じます。
『太平記』の著者は有能ではあっても誠意はなく、『梅松論』の著者は無能であっても誠意と思い込みに溢れている、といったら言い過ぎかもしれませんが。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

ところで呉座氏が「普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから、この敗戦はよほどショックだったのだろう」と指摘されている部分、『梅松論』の原文では、

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然ると雖も、下御所は尚立帰りて摩耶の麓に御座ありければ、いかにも都にむかひて命を捨つべき御所存なりしほどに、将軍御問答頻りに有りしに依りて兵庫に御帰りあり。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

となっていますが、『太平記』ではこれと直接に対応する叙述はないようです。
しかし、この後の尊氏が乗船して西国に向かう場面では、『太平記』も相当に辛辣ですね。
第十五巻第十三節「将軍筑紫落ちの事」から少し引用してみます。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p481以下)

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 千度百度〔ちたびももたび〕闘へども、御方〔みかた〕の軍勢の軍〔いくさ〕したる有様を見るに、叶ふべしとも覚えざりければにや、将軍も、早や退屈したる気色に見え給ひける処へ、大友参つて、「今の如くにては、何としても御合戦よかるべしとも覚え候はず。われらが昨日参り逢ひて候ふこそ、しかるべき御運と覚え候へ。幸ひに船ども多く候へば、ただ筑紫へ御開き候へかし。少弐筑後入道、御方に候ふなれば、九国の勢参らずと云ふ者候ふべからず。御勢多く付きまゐらせ候はば、やがて大軍を動かして、京都に攻められ候はんに、何程の事か候ぶべき」と申しければ、将軍、げにもとや思しけん、やがて大友が船にぞ乗らせ給ひける。
 諸軍勢これを見て、「すはや、将軍こそ御船に召されて落ちさせ給へ」と、ののめきて、取る物も取りあへず、乗り殿〔おく〕れじと周章〔あわ〕て騒ぐ。船はわづかに三百余艘なり。乗らんとする人は、二十万騎に余れり。一艘に千人ばかり込み乗りける間、大船一艘乗り沈めて、一人も残らず失せにけり。自余の船ども、これを見て、さのみは人を乗せじと、纜〔ともづな〕を脱〔と〕いて差し出だす。乗り殿れたる兵ども、物具、衣裳を脱ぎ捨てて、遥かの澳〔おき〕に泳ぎ出で、船に取り付かんとすれば、太刀、長刀にて切り殺し、払ひ落とす。乗り得ずして渚に帰る者は、徒らに自害して、磯越す浪に漂へり。
 尊氏卿、福原の京をさへ落とされて、長汀の月に心を傷ましめ、曲浦の浪に袖を濡らして、心つくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功高くして、数万人の降人を召し具し、天下の士卒に将として、花の都に帰り給ふ。憂喜忽ちに相替はりて、うつつも夢の如くなり。
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「将軍も、早や退屈したる気色に見え給ひける処へ」とありますが、この「退屈」は気力が屈した様子ですね。
また、兵藤氏の脚注では「大友」は「大友貞宗」となっていますが(p482)、貞宗は元弘三年(1333)十二月に病死しているので客観的には変ですね。
ただ、この場面で「大友」は九州事情に精通した老練な人物として描かれているので、千代松丸(氏泰、1321-62)では些か軽いような感じも否めません。
ま、『太平記』に登場する「役者」としては貞宗がイメージされているようです。
さて、尊氏が大友の船に乗船した後の描写は悲惨ですが、多少の脚色があるにしても、この時の尊氏が配下の将兵を見捨てて逃げ去る敗軍の将であることは間違いありません。
この辺り、『梅松論』では「勢込乗ける有様あはたゞしかりし事共なり」とあるだけで、更に「頼義・義家も奥州征伐の時、七騎になり給ふことあり。始の負は、御当家の佳例なりと申す輩多かりけり」などとありますが、これは強がりも些か度が過ぎている感じです。
この場面では、『梅松論』の作者は撤退時の悲惨な状況を熟知しつつ、敢えてそれを書かない訳で、明らかに尊氏・直義側から戦争を描写している『梅松論』の作者と、「高見の見物」を決め込んでいる『太平記』作者の客観的立場の違いが如実に現れていますね。
『梅松論』では、この直後にも「去程に、供奉仕る一方の大将共の中に七八人京都へ赴くあり。降参とぞ聞えし。此輩はみな去年関東より今に至るまで戦功を致す人々なり。然りと雖も御方敗北の間、いつしか旗を巻き冑を脱ぎ、笠印を改めける心中共こそ哀れなれ」とありますが、『梅松論』の作者はこれら「降人」の名前を知悉しながら敢えて記さない訳で、これも『梅松論』特有の配慮ですね。
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