学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

四月初めの中間整理(その12)

2021-04-14 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月14日(水)09時31分9秒

清水克行氏の描く尊氏は「病める貴公子」、即ち精神的に複雑に屈折した血統エリートですが、私は尊氏を恵まれた環境でのびのびと育った教育エリートと考えています。
この点を説得的に論証したいと思って、尊氏の周辺、特に女性たちに注目してみたところ、当初の予想より遥かに充実した知見を得ることができました。
まず最初に調べたのは尊氏の異母兄・高義の母方です。
私は以前、足利貞氏の正室・釈迦堂殿と側室・上杉清子が、高義遺児と尊氏のいずれを足利家当主とするかをめぐって厳しく対立していたと考えていたのですが、この点も根本的な誤りだったかもしれないな、と思うようになりました。
高義の母・釈迦堂殿は金沢顕時と安達泰盛娘の間に生まれていますが、生年も不明で、金沢貞顕の異母姉かそれとも妹かも分かりません。
ただ、母親の安達泰盛娘は法名を無着といい、無学祖元の弟子であって、京都で資寿院という寺を創建するなどして禅宗の発展に貢献した女性です。
私は無着を視野が広く、行動力に富んだ極めて知的な女性と考えています。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)(その2)

無着の履歴は無外如大という、やはり無学祖元の弟子の女性と混同されてしまっていて、非常に分かりにくいところがあるのですが、私は二十年ほど前に山家浩樹氏の論文に即して無外如大についてあれこれ考えてみたことがあります。
今回、釈迦堂殿の母である無着を中心に据えて再考してみたところ、無着は上杉清子や赤橋登子などの尊氏周辺の女性の生き方を考える上で本当に参考になる女性ですね。

(その3)(その4)

釈迦堂殿の母・無着の人生はある程度追えますが、釈迦堂殿の方は少し難しいですね。
経歴はともかく、その思想を窺う史料は全くありませんが、安達泰盛に関する知識や安達泰盛の理念が、娘の無着や孫の釈迦堂殿によって多少理想化されていたかもしれない形で尊氏や直義に伝わった可能性もあるのではないか、と私は想像しています。

(その5)

さて、次に尊氏の正室・赤橋登子について考えてみましたが、これはなかなか長大なシリーズになってしまいました。
まずは清水氏の見解を確認しましたが、清水氏は「尊氏を叛逆に走らせた決定的な要因は、やはり彼自身が北条氏の血をひかない、北条氏と距離のある人物であることにあったのではないだろうか」という立場です。
そして清水氏が描く尊氏像は一貫して「主体性のない男」であり、「主体性のない男」尊氏の「背中を押」して「叛逆に踏み切」らせたのは「上杉氏を中心として、家中で北条氏に特別な恩義を感じることなく、北条氏の風下に立つことを潔しとしないグループ」です。

謎の女・赤橋登子(その1)(その2)

清水氏は妻子を人質に取られた以上「幕府に叛逆するということは、彼女らを見殺しにするということを意味していた」と言われますが、人質といっても別に拘禁されている訳ではなく、足利邸に普通に住んでいただけですから、適当な時期に鎌倉を脱出すればよいだけの話で、実際に登子と義詮はそうしています。
清水氏は「母の実家をとるか、妻の実家をとるか。現代人の感覚からすれば尊氏は身を切られるような重大な決断を迫られていた」と言われていますが、別にそんなことはないですね。
また、妻を保護することと「妻の実家をとる」ことは全く別の話で、実際に尊氏は登子は保護したものの、「妻の実家」の人々は皆殺しにしています。

(その3)
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