投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月27日(火)21時22分10秒
ちょっと横道にそれてしまいましたが、山家著に戻って若干の補足をしておきます。
山家氏は尊氏が篠村八幡宮で「反幕府の挙兵を宣言」したのは「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」だとされますが、私は元弘三年(1333)の時点では尊氏は征夷大将軍を望んでおらず、従って「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」もあり得なかったと考えます。
本当に尊氏がそのような「演出」を狙っていたのであれば、篠村八幡宮に捧げた願文に頼朝への言及ないし示唆が多少なりともありそうですが、そんな気配は全く感じられません。
念のため篠村八幡宮に残された尊氏の願文を確認してみると、
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敬って白〔もう〕す
立願〔りゅうがん〕の事。
右、八幡大菩薩は王城の鎮護にして我が家の廟神なり。而して高氏は神の苗裔と為〔し〕て、氏の家督と為て、弓馬の道に於いて、誰人か優異せざらんや。これに依りて代々朝敵を滅ぼし、世々凶徒を誅せり。時に元弘の明君、神を崇めんが為、法を興さんが為、民を利せんが為、世を救わんが為、綸旨を成さるるの間、勅命に随い義兵を挙ぐる所なり。然るの間、丹州の篠村宿を占め、白旗を楊木の本に立つ。爰〔ここ〕に彼の木の本に於いて、一の社〔やしろ〕有り。これを村の民に尋ぬるに、所謂、大菩薩の社壇なり、と。義兵成就の先兆、武将頓速の霊瑞なり。感涙暗〔ほのか〕に催し、仰信憑〔たの〕み有り。此の願い、忽ちに成り、我が家再栄す。者〔てえれば〕、社壇を荘厳せしめ、田地を寄進すべきなり。仍ち立願、件の如し。
元弘三年四月廿九日 前治部大輔源朝臣高氏<敬白>(裏花押)
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ということで(小松茂美『足利尊氏文書の研究 解説篇』、旺文社、1997、p40)、「元弘の明君」後醍醐帝が「神を崇めんが為、法を興さんが為、民を利せんが為、世を救わんが為」に綸旨を下されたから、自分は「勅命に随い義兵を挙」げるのだ、と言っているだけで、頼朝を連想させるような要素は全くありません。
この点、『太平記』の願文も確認してみると、まず次のような状況設定があります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p56以下)
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さる程に、明くれば五月七日、寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して、篠村の宿を立ち給ふ。夜未だ深かりければ、閑かに馬打つて東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当たつて、陰森たる古柳疎槐の下に社壇ありと覚えて、焼〔た〕きすさめたる庭火の影ほのかなるに、禰宜が袖振る鈴の音、幽〔かす〕かに聞こえて神さびたり。いかなる社〔やしろ〕とは知らねども、戦場に趣く門出なれば、馬より下り、甲〔かぶと〕を脱ぎ、叢祠の前に跪いて、「今日の合戦、事故〔ことゆえ〕なく朝敵を退治する擁護〔おうご〕の手を加へ給へ」と、祈誓を凝らしてぞおはしける。返り申ししける巫〔かんなぎ〕に、「この社はいかなる神を崇め奉りたるぞ」と問はれければ、「これは八幡を遷しまゐらせて候ふ間、篠村の新八幡宮と申し候ふなり」とぞ答へける。「さては、当家尊崇の霊神なり。機感相応せり。一紙の願書を奉らばや」と宣ひければ、疋檀妙玄、冑〔よろい〕の引き合はせより矢立を取り出だして、筆をひかへてこれを書く。その詞に云はく、
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疋檀妙玄は尊氏の右筆です。
そして願文は次の通りです。(p57以下)
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敬白〔けいびゃく〕す 祈願の事
夫〔そ〕れ八幡大菩薩は、聖代前烈の宗廟、源家〔げんけ〕中興の霊神なり。本地内証の月高く、十万億土の天に懸かり、垂迹外用〔げゆう〕の光明らかに、七千余座の上に冠〔かぶ〕らしむ。縁に触れ化〔か〕を分かつと雖も、尽〔ことごと〕く未だ非礼の奠〔てん〕を享〔う〕けず。慈みを垂れ生を利すると雖も、偏へに正直の頭〔こうべ〕に宿らんと期す。偉〔おおい〕なるかな、その徳たること。世を挙〔こぞ〕つて誠を尽くす所以なり。
爰〔ここ〕に承久より以来〔このかた〕、当棘〔とうきょく〕累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣〔ほしいまま〕に四海の権柄を犯し、横〔よこしま〕に九代の猛威を振るふ。剰〔あまつさ〕へ今聖主を西海の浪に遷し、貫頂を南山の雲に困〔くる〕しむ。悪逆の甚しきこと、前代にも未だその類を聞かず。且〔かつう〕はこれ朝敵の最たり。臣の道と為〔し〕て、命を致さざらんや。また神敵の先たり。天の理と為て、誅を下さざらんや。
高氏苟〔いやしく〕も彼の積悪を見て、未だ匪躬〔ひきゅう〕を顧みるに遑〔いとま〕あらず。将に魚肉の菲〔うす〕きを以て、刀俎〔とうそ〕の利〔と〕きに当たる。義卒〔ぎそつ〕力を勠〔あわ〕せ、旅〔たむろ〕を西南に張る日、上将は鳩嶺に軍〔いくさだち〕し、下臣は篠村に陣す。共に瑞籬〔みずがき〕の影に在り、同じく擁護の懐を出づ。函蓋〔かんがい〕相応せり。誅戮〔ちゅうりく〕何ぞ疑はん。
仰ぐ所は百王守護の神約なり。勇みを石馬〔せきば〕の汗に懸く。憑〔たの〕む所は累代帰依の家運なり。奇〔く〕しきを金鼠の咀〔か〕むに寄す。神将〔まさ〕に義戦に与〔くみ〕し、霊威を耀かし、徳風〔とくふう〕草に加へて敵を千里の外に靡かし、神光〔しんこう〕剣に代はりて勝〔かつ〕を一戦の中に得せしめたまへ。丹精誠あり。玄鑑誤ること莫かれ。敬つて白す。
元弘三年五月七日 源朝臣高氏敬白す。
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こちらでは「源家中興の霊神なり」や「承久より以来、当棘累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣に四海の権柄を犯し、横に九代の猛威を振るふ」あたりから、源氏三代への回帰の思いを読み取ることが不可能ではないでしょうが、そもそもこの願文自体、文飾の度合いが高すぎて、どうにも信頼できかねるものですね。
二つの「二者択一エピソード」から窺えるように、『太平記』は一貫して鎌倉最末期・建武新政期の人々が征夷大将軍を大変権威のあるものと捉えていたことを前提に、「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」を重ねている訳ですから、この篠村八幡宮の場面でも、もう少し派手に「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」をしてもよさそうなものですが、実際にはそうなっていません。
ということで、尊氏が篠村八幡宮で「反幕府の挙兵を宣言」したのは「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」だとする山家説は『太平記』にすら支証を得ることができず、まあ、無理筋ではないですかね。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188
ちょっと横道にそれてしまいましたが、山家著に戻って若干の補足をしておきます。
山家氏は尊氏が篠村八幡宮で「反幕府の挙兵を宣言」したのは「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」だとされますが、私は元弘三年(1333)の時点では尊氏は征夷大将軍を望んでおらず、従って「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」もあり得なかったと考えます。
本当に尊氏がそのような「演出」を狙っていたのであれば、篠村八幡宮に捧げた願文に頼朝への言及ないし示唆が多少なりともありそうですが、そんな気配は全く感じられません。
念のため篠村八幡宮に残された尊氏の願文を確認してみると、
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敬って白〔もう〕す
立願〔りゅうがん〕の事。
右、八幡大菩薩は王城の鎮護にして我が家の廟神なり。而して高氏は神の苗裔と為〔し〕て、氏の家督と為て、弓馬の道に於いて、誰人か優異せざらんや。これに依りて代々朝敵を滅ぼし、世々凶徒を誅せり。時に元弘の明君、神を崇めんが為、法を興さんが為、民を利せんが為、世を救わんが為、綸旨を成さるるの間、勅命に随い義兵を挙ぐる所なり。然るの間、丹州の篠村宿を占め、白旗を楊木の本に立つ。爰〔ここ〕に彼の木の本に於いて、一の社〔やしろ〕有り。これを村の民に尋ぬるに、所謂、大菩薩の社壇なり、と。義兵成就の先兆、武将頓速の霊瑞なり。感涙暗〔ほのか〕に催し、仰信憑〔たの〕み有り。此の願い、忽ちに成り、我が家再栄す。者〔てえれば〕、社壇を荘厳せしめ、田地を寄進すべきなり。仍ち立願、件の如し。
元弘三年四月廿九日 前治部大輔源朝臣高氏<敬白>(裏花押)
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ということで(小松茂美『足利尊氏文書の研究 解説篇』、旺文社、1997、p40)、「元弘の明君」後醍醐帝が「神を崇めんが為、法を興さんが為、民を利せんが為、世を救わんが為」に綸旨を下されたから、自分は「勅命に随い義兵を挙」げるのだ、と言っているだけで、頼朝を連想させるような要素は全くありません。
この点、『太平記』の願文も確認してみると、まず次のような状況設定があります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p56以下)
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さる程に、明くれば五月七日、寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して、篠村の宿を立ち給ふ。夜未だ深かりければ、閑かに馬打つて東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当たつて、陰森たる古柳疎槐の下に社壇ありと覚えて、焼〔た〕きすさめたる庭火の影ほのかなるに、禰宜が袖振る鈴の音、幽〔かす〕かに聞こえて神さびたり。いかなる社〔やしろ〕とは知らねども、戦場に趣く門出なれば、馬より下り、甲〔かぶと〕を脱ぎ、叢祠の前に跪いて、「今日の合戦、事故〔ことゆえ〕なく朝敵を退治する擁護〔おうご〕の手を加へ給へ」と、祈誓を凝らしてぞおはしける。返り申ししける巫〔かんなぎ〕に、「この社はいかなる神を崇め奉りたるぞ」と問はれければ、「これは八幡を遷しまゐらせて候ふ間、篠村の新八幡宮と申し候ふなり」とぞ答へける。「さては、当家尊崇の霊神なり。機感相応せり。一紙の願書を奉らばや」と宣ひければ、疋檀妙玄、冑〔よろい〕の引き合はせより矢立を取り出だして、筆をひかへてこれを書く。その詞に云はく、
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疋檀妙玄は尊氏の右筆です。
そして願文は次の通りです。(p57以下)
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敬白〔けいびゃく〕す 祈願の事
夫〔そ〕れ八幡大菩薩は、聖代前烈の宗廟、源家〔げんけ〕中興の霊神なり。本地内証の月高く、十万億土の天に懸かり、垂迹外用〔げゆう〕の光明らかに、七千余座の上に冠〔かぶ〕らしむ。縁に触れ化〔か〕を分かつと雖も、尽〔ことごと〕く未だ非礼の奠〔てん〕を享〔う〕けず。慈みを垂れ生を利すると雖も、偏へに正直の頭〔こうべ〕に宿らんと期す。偉〔おおい〕なるかな、その徳たること。世を挙〔こぞ〕つて誠を尽くす所以なり。
爰〔ここ〕に承久より以来〔このかた〕、当棘〔とうきょく〕累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣〔ほしいまま〕に四海の権柄を犯し、横〔よこしま〕に九代の猛威を振るふ。剰〔あまつさ〕へ今聖主を西海の浪に遷し、貫頂を南山の雲に困〔くる〕しむ。悪逆の甚しきこと、前代にも未だその類を聞かず。且〔かつう〕はこれ朝敵の最たり。臣の道と為〔し〕て、命を致さざらんや。また神敵の先たり。天の理と為て、誅を下さざらんや。
高氏苟〔いやしく〕も彼の積悪を見て、未だ匪躬〔ひきゅう〕を顧みるに遑〔いとま〕あらず。将に魚肉の菲〔うす〕きを以て、刀俎〔とうそ〕の利〔と〕きに当たる。義卒〔ぎそつ〕力を勠〔あわ〕せ、旅〔たむろ〕を西南に張る日、上将は鳩嶺に軍〔いくさだち〕し、下臣は篠村に陣す。共に瑞籬〔みずがき〕の影に在り、同じく擁護の懐を出づ。函蓋〔かんがい〕相応せり。誅戮〔ちゅうりく〕何ぞ疑はん。
仰ぐ所は百王守護の神約なり。勇みを石馬〔せきば〕の汗に懸く。憑〔たの〕む所は累代帰依の家運なり。奇〔く〕しきを金鼠の咀〔か〕むに寄す。神将〔まさ〕に義戦に与〔くみ〕し、霊威を耀かし、徳風〔とくふう〕草に加へて敵を千里の外に靡かし、神光〔しんこう〕剣に代はりて勝〔かつ〕を一戦の中に得せしめたまへ。丹精誠あり。玄鑑誤ること莫かれ。敬つて白す。
元弘三年五月七日 源朝臣高氏敬白す。
-------
こちらでは「源家中興の霊神なり」や「承久より以来、当棘累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣に四海の権柄を犯し、横に九代の猛威を振るふ」あたりから、源氏三代への回帰の思いを読み取ることが不可能ではないでしょうが、そもそもこの願文自体、文飾の度合いが高すぎて、どうにも信頼できかねるものですね。
二つの「二者択一エピソード」から窺えるように、『太平記』は一貫して鎌倉最末期・建武新政期の人々が征夷大将軍を大変権威のあるものと捉えていたことを前提に、「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」を重ねている訳ですから、この篠村八幡宮の場面でも、もう少し派手に「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」をしてもよさそうなものですが、実際にはそうなっていません。
ということで、尊氏が篠村八幡宮で「反幕府の挙兵を宣言」したのは「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」だとする山家説は『太平記』にすら支証を得ることができず、まあ、無理筋ではないですかね。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
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征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
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