学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

山家著(その9)「京都での根拠地」

2021-04-28 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月28日(水)10時49分40秒

続いて「京都での根拠地」に入ります。(p16以下)

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 はじめに、尊氏・直義が京都でどこを拠点にしたかをみる。鎌倉時代の足利氏は京都にこれといったよりどころを保持していなかったと想像され、京都を本拠地とするにあたり、どこに邸宅を構え、氏寺を設けたかを整理することで、足利氏がみずからのよりどころを何におこうとしたか、垣間みえてくる。正統性の根拠と共通するものがあるはずである。
 直義は、建武政権の時代以来、一貫して三条坊門小路の南、万里小路の西、高倉小路の東に位置する邸宅に居住した。三条殿と呼ばれることが多い。この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている。加えて、古く宮地直一氏は、この場所は鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたことを指摘している。直義は、兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた。源氏と関わりの深い八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因となったであろう。通成邸の八幡宮は、直義邸の鎮守八幡宮へと転化した。直義亡きあと、直義邸は別人の宅地とはならず、八幡宮として位置づけられて三条八幡宮と呼ばれ、事実上、幕府の管理下に置かれた。
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いったん、ここで切ります。
何故か弟の直義邸から始まっていますが、それは直義邸には「源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていた」という由緒があるのに対し、尊氏邸にはさほどの由緒を見つけられなかったからでしょうね。
ただ、「源姓公家である源通成」は村上源氏・中院家の人で、源氏は源氏でも武家社会で重んじられる清和源氏とは全く別の系統であり、直義は中院通成におよそ同族意識など感じなかったはずです。
ちなみに中院通成(1222-87)の父・通方(1189-1239)は久我通光(1187-1248)の同母弟で、通成は後深草院二条の父・雅忠(1228-72)の従兄弟にあたります。
また、中院通成の娘・顕子は西園寺実兼(1249-1322)の正室で、公衡(1264-1315)と永福門院(1371-1342)の母でもあり、国文学者の中には永福門院の本当の母親は後深草院二条なのだという人もいたりします。

中院通成(1222-87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E6%88%90

ま、それはともかく、素直に考えれば直義が中院通成の子孫(通顕、1291-1343)から中院邸を接収したのは、そこが「後醍醐天皇の二条富小路内裏に近い」という便利な場所だったことが最大の要因で、たまたまそこに「源氏と関わりの深い八幡宮」が存在していたとしても、それが頼朝に結びつくような由緒をもっているならともかく、所詮は村上源氏の邸宅内の八幡宮ですから、「その存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因となった」訳ではなかろうと思います。
他にもっと便利な場所があれば、そちらに八幡宮がなくても直義はより便利な場所を選んだのではないですかね。
後日、その場所が「別人の宅地とはならず、八幡宮として位置づけられて三条八幡宮と呼ばれ、事実上、幕府の管理下に置かれた」のは、直義が新たな由緒を作っただけの話であり、山家氏の発想はここでも原因と結果が逆転しているように思われます。
さて、続きです。

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 一方、尊氏は、建武政権の時、直義邸の北、二条高倉に居住していた。この邸宅は焼失し、一三四四(康永三)年には鷹司東洞院邸に居住している。土御門東洞院内裏の近くである。細川武稔氏によると、この間、尊氏は東山常在光院に居宅を構えていた。東山常在光院は、北条氏一門の金沢氏が京都での拠点としていた寺院である。金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用していると考えられる。
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常在光院は『徒然草』第238段の兼好自讃の一つに「常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり……」と登場するので、以前少し調べたことがありますが、納富常天氏の「東山常在光院について」(『仏教史研究』10号、1976)という古い論文以外には特に専論もないようですね。
そして納富論文にも尊氏が常在光院を取得した経緯については説明がありません。
山家氏が「金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用していると考えられる」と書かれているのは、具体的には尊氏の異母兄・高義(1297-1317)の母・釈迦堂殿が金沢貞顕(1278-1333)の姉妹なので、貞顕の死後、釈迦堂殿が承継し、尊氏は更に釈迦堂殿から譲り受けた、といった経緯を想定されているのかな、と思います。

四月初めの中間整理(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f1db273cf73164c724151a329f3d535
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山家著(その8)「正統性の確立」

2021-04-28 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月28日(水)08時36分44秒

山家著では厳密な章立てはなされていませんが、二番目の章「足利氏権威の向上」に入ります。
この章は、

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正統性の確立
京都での根拠地
頼朝の追善
北条氏の追善
後醍醐天皇の追善
頼朝の後継者尊氏
足利氏の優位性
神仏の付託
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という八節で構成されていますが、まず最初の「正統性の確立」から見て行きます。(p15以下)

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 一三三六(建武三)年八月、光明天皇が即位し、十一月には、尊氏を中心とする政権の方向性が建武式目として公表され、新政権は歩みを始める。いわゆる室町幕府である。新政権をめぐる情勢は予断を許さないものだった。後醍醐天皇は、いったんは尊氏との和議を受け入れたものの、十二月には京都を脱出して吉野に拠点をおき、その後も、もう一方の政治勢力の核であり続けた。尊氏を擁する新政権は、幅広い支持をえるため、軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心する。一三三八(暦応元)年八月に尊氏は征夷大将軍となった。尊氏、そして足利氏が、鎌倉幕府の将軍と同等の存在として、加えてその後の諸勢力の継承者として、幅広い人びとに認知されるならば、新政権は他の勢力を排して安定へと向かうことが可能となる。ここでは、政権担当者としての正統性の確立について述べたい。
 尊氏を中心とする政権にとって、継承者としての正統性を主張する場合、その根拠は三点ほどあげられる。まずは(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。より狭義には頼朝ら三代の鎌倉幕府将軍の後継者であることを意味し、ひいては鎌倉幕府将軍という地位の後継者を主張することにもつながる。またその将軍のもと政権の実権を掌握していたのは北条氏であった。そのため(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。さらに、尊氏らが継承する対象として、前政権である建武政権も忘れてはならない。そこで(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。この三点が主眼となろう。
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山家氏が「継承者としての正統性を主張する場合」と限定されているのは興味深いですね。
「支配の正統性」については、マックス・ウェーバーの余りに有名な三類型の議論があります。
「理念型」とは何か、みたいな難しい議論は避けて、ごく一般的・通俗的な理解によれば、「コトバンク」の「ブリタニカ国際大百科事典」解説にあるような、

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権威には,他者に命令し影響を与えるだけではなく,尊敬を集め,自発的に服従させる能力が含まれている。ある政治的支配が正統であると認められる場合は,政治権力が権威に源泉を置き,支配は権利となり,服従は義務となって,安定した支配関係が成立する。 M.ウェーバーは正統性の型を伝統的・カリスマ的・合法的の3つに分類した。世襲に代表される伝統的支配は前近代社会に,個人の強い個性・魅力に基づくカリスマ的支配は主として変動期社会に,ルールや手続きに依存する合法的支配は近代社会に当てはまる。

https://kotobank.jp/word/%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E6%80%A7-158997

といった話ですね。
仮に尊氏が頼朝のようなカリスマ的支配者で、地方で反乱を起こして自己の支配領域を徐々に拡大し、最終的には前政権を武力で圧倒して平和をもたらしたなら、それだけで「支配の正統性」としては十分で、「政権担当者としての正統性を示すことに腐心」するような必要はなかったはずです。
しかし、尊氏の軍事的勝利はなんとも中途半端なものであり、「伝統的支配」を体現する後醍醐が「京都を脱出して吉野に拠点をおき」、軍事的にもそれなりに頑張って「もう一方の政治勢力の核であり続けた」ために、「尊氏を中心とする政権」は「軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心」しなければならなくなった訳ですね。
では、尊氏が「支配の正統性」を主張しようとする場合、それは、「継承者としての正統性」を主張することに限られねばならないのか。
極端な例をあげると、仮に尊氏が非常に見事な法制度を考案して、誰もがその法制度に納得するような事態になれば「合法的支配」だけで充分で、「継承者としての正統性」を主張する必要もないはずです。
ま、前近代においては実際上そんなことはありえない訳で、山家氏が議論を「継承者としての正統性を主張する場合」に限定しようとすることは一応理解できますが、しかし、山家氏が挙げる三点、即ち、

(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。
(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。
(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。

の内、(2)は非常に分かりにくいですね。
尊氏が「伝統的支配」を体現する後醍醐の命を受けてやったことは「北条氏の実権」の否定です。
自らが否定した「北条氏の実権」を「継承」しなければならないとはいったいどういうことなのか、それは明白な矛盾ではないか、という疑問が生じてきます。
そして、実際に(2)に関する山家氏の説明を見ると、それは「北条氏の追善」に過ぎません。
果たして「北条氏の追善」が「北条氏の実権をも継承していること」と結びつくのか、他の説明が可能ではないか、と私は考えますが、その点は後で詳細に論じたいと思います。
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