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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その12)

2021-04-20 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月20日(火)11時35分38秒

「今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな」が『源氏物語』を踏まえているのでは、という私見は今まで誰も唱えていない超絶単独説のようですが、変ですかね。
『源氏物語』でも光源氏は都落ちの形で須磨に逃れ、ついで更に状況が悪化して明石へ向った訳ですから、仮に光源氏が明石に向かう心境を問われたら、「今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな」と答えたとしても全く不思議ではありません。

明石 (源氏物語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3_(%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E)

若くして勅撰歌人を目指した尊氏にとって、『源氏物語』は和歌的教養の基礎中の基礎であり、その内容を熟知していたことも自明ですから、ここまで状況が似ているのに自身を光源氏になぞらえない方が私には不思議に思えます。
ちなみに足利尊氏の正式な名前「源尊氏」はちょっと「光源氏」に似ていて、尊氏もまんざらでもない気分だったのではないかと私は想像します。
「源高氏」時代でもそれなりに高貴さを感じさせる名前だったのに、元弘三年(1333)八月五日、後醍醐から「尊」の字を賜って以降はますます光り輝いたはずの名前ですね。
ただまあ、何故この歌が『風雅和歌集』に載ったかというと、尊氏が他の多くの自作とともに撰歌資料として提供したからでしょうが、その際には既に作歌の時期から十年程度の時間が流れています。
とすると、悪意をもって読めば、尊氏としては、敗走の渦中でも自分はこんなにも落ち着いていたのだ、と自分の剛毅さをアピールしたかったのかもしれないし、あるいは「大蔵谷」で実際に詠んだのではなく、本来あるべきであった剛毅な、余裕綽綽たる自分の理想の姿を後日捏造したのだ、などと言えない訳でもなさそうです。
ま、ひとつの和歌の解釈に過度にこだわると尊氏の全体像を見失うことになりかねないので、この歌については後でまた振り返ることとし、石川論文の続きをもう少し見ておきたいと思います。
紹介がずいぶん遅れましたが、石川泰水氏は昭和53年(1978)東大文学部国文学科卒、修士・博士も東大で、ご専門は中世和歌ですね。
昭和61年(1986)に群馬県立女子大学専任講師になられた後、助教授・教授として三十年以上同大学に勤められた方です。
詳しい経歴と著作は大学公式サイトに出ています。

https://www.gpwu.ac.jp/dep/lit/nat/2018/02/post-6.html

そして、「まほろば」というブログによれば、石川氏は2018年3月26日に六十二歳の若さで亡くなられたそうです。
私は一度も御目にかかったことはありませんが、このブログの写真を拝見すると、いかにも篤実な学者らしい雰囲気を持った方ですね。

http://mahoroba3.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-b45a.html

さて、石川論文の続きです。(p16以下)

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 九州まで西下して軍勢を立て直した尊氏軍は、捲土重来を期して四月に再び都に向かって進攻を始めた。五月五日に、戦勝祈願のためであろう、尾道の浄土寺に立ち寄り、尊氏・直義ら六人が観音賛仰の和歌計三十三首を詠んで奉納している。同寺に原本が残る「紙本墨書観世音法楽和歌」であり、小川氏が特に注目した。尊氏にとっての和歌と信仰との密接な関わりを示唆する初期の作品である。持明院統の光厳上皇の院宣というもう一つの錦の御旗を掲げながら足利軍は進撃を続け、二十五日には湊川で楠木正成・新田義貞の軍を打ち破って都へと迫り、後醍醐天皇はまたも比叡山に退く羽目になった。入京した尊氏は光厳上皇とその弟豊仁親王を迎え、八月十五日、豊仁親王が光明天皇として践祚する。十月に後醍醐天皇は和議を受け入れて都に戻り、光明天皇に三種の神器を譲るが、十二月に出奔、吉野で引き続き自ら政務を執る意思を表明する。都の北朝に対して吉野にも政権が樹立される、所謂南北朝時代の到来である。
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「紙本墨書観世音法楽和歌」については、後で小川剛生氏の見解とともに紹介します。
コメント
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