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『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その2)

2020-11-07 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 7日(土)11時46分8秒

うーむ。
『梅松論』は比較的信頼できる史料だ、みたいなことを言われても、後嵯峨院崩御の年を二十六年も間違えるなど、何だかなあ、と思わざるをえない箇所が多いのですが、まあ、「何がしの法印とかや申て多智多芸の聞え有ける老僧」に仮託されている『梅松論』の作者は、実際には武家側の人であって、公家社会については知識が乏しく、僅かな情報を聞きかじっているだけなんでしょうね。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou01.html

しかし、その程度の知識・教養の持ち主に過ぎないにもかかわらず、「後嵯峨院の御遺勅」への異常なこだわりは何なのか。
おそらくこれは、両統迭立期に「後嵯峨院の御遺勅」に関するこのような説明が後醍醐天皇に近い公家から幕府関係者になされていて、それを真に受けた人の歴史認識を反映しているのではないか、と思われます。
そうした、いわば大覚寺統のイデオロギー工作の担当者としては、「当今の勅使」の「吉田大納言定房卿」あたりも有力な候補者となりそうですが、後醍醐の乳父であった吉田定房にしろ、正中の変による混乱を最小限に止めた万里小路宣房にしろ、後醍醐の周辺には本当に優秀な側近がいますね。
こうした人たちが鎌倉に行って幕府と交渉した際に、その頭脳の明晰さと識見の高さを幕府関係者に強く印象づけたことが、後醍醐に怪しい動きをあったにもかかわらず、幕府側が敢えて退位を要求しなかった理由のひとつなのかもしれません。
さて、『梅松論』そのものにあまり寄り道している訳にも行かないので、足利尊氏の討幕前後の行動に関係する部分を確認したいと思います。
以下、『群書類従』第二十輯(合戦部)から引用します。

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去年の春遷幸の時。天下の貴賤関東の重恩にあづかる者も君の御遠行を見奉りて。心有人の事は申すにをよばず。心なき山男賤女にいたるまでもあさの袖をぬらし。かなしまぬはなかりける。いかにも宝祚安寧ならん事をぞ人々祈念し奉る。かかりける所に。播磨のくに赤松入道円心以下畿内近国の勢残らず君に参じける事。是偏に只事にあらず。遂に還幸を待請奉て元弘三年三月十二日二手にて鳥羽竹田より洛中に攻入処に六波羅の勢馳向て合戦をいたし追返す。依之京都よりの早馬関東へ馳下る間。当将軍尊氏重て討手として御上洛。御入洛は同四月下旬なり。元弘元年にも笠置城退治の一方の大将として御発向有し也。今度は当将軍の父浄妙寺殿御逝去一両月の中也。未御仏事の御沙汰にも及ばず。御悲涙にたへかねさせたまふ折ふしに大将として都に御進発あるべきと高時禅門申間。此上は御異儀に及ばず御上洛あり。凡大将たる仁体もだしがたしといへども。関東今度の沙汰不可然。依之ふかき御恨とぞ聞えし。一方の大将は名越尾張守高家。これは承久に北陸道の大将軍式部丞朝時の後胤なり。両大将同時に上洛有て。四月廿七日同時に又都をいで給ふ。将軍は山陰丹波丹後を経て伯耆へ御発向有べきなり。高家は山陽道播磨備前を経て同伯耆へ発向せしむ。船上山を攻らるべき議定有て下向の所。久我縄手にをいて手合の合戦に大将名越尾張守高家討るる間。当手の軍勢戦に及ずして悉く都に帰る。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou13.html

『太平記』との比較は次の投稿で行いますが、このように『梅松論』では名越高家は単にその討死の事実があっさりと記されるだけで、佐用範家の活躍はおろか、その名前すら登場しません。
もう少し引用を続けます。

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同日将軍は御領所に丹波国篠村に御陣を召る。抑将軍は関東誅罰の事。累代御心の底にさしはさまるる上。細川阿波守和氏。上杉伊豆守重能。兼日潜に綸旨を賜て。今御上洛の時。近江国鏡駅にをいて披露申され。既に勅命を蒙らしめ給ふ上は。時節相応天命の授所なり。早々思召立つべきよし再三諫申されける間。当所篠村の八幡宮の御宝前にをいて既に御旗を上らる。柳の大木の梢に御旗を立てられたりき。是は春の陽の精は東よりきざし始む。随て柳は卯の木なり。東を司て王とす。武将も又卯の方より進発せしめ給ふて。順に西にめぐりたる相生の夏の季に朝敵を亡し給ふべき謂なり。しかる程に京中に充満せし軍勢共御味方に馳参ずる事雲霞のごとし。即篠村の御陣を嵯峨へうつされ。近日洛中へ攻寄らるべきよし其聞えあり。都にては去三月十二日より十余度の合戦に打負て六波羅を城郭に構へ皇居として軍兵数万騎楯籠る。かかる所に去春より楠兵衛尉正成金剛山の城を囲し関東の大勢一戦も功をなさず利を失ふ処に。将軍已に君に頼まれ奉り給て近日洛中へ攻入給ふよし金剛山へ聞えければ。諸人おどろき騒事斜ならず。かかるに付ても関東に忠を存ずる在京人并四国西国の輩。弥思ひ切たる事の体。誠にあはれにぞおぼえし。去ほどに五月七日卯刻将軍の御勢嵯峨より内野に充満す。【後略】

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou14.html
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