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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その13)

2021-01-07 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 7日(木)13時48分55秒

少し間が空いてしまったので、(その12)で引用した部分を再掲します。

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 本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である。さらに、史料Xは、陸奥守が鎮守府将軍を兼務することも多かったとする。しかし、建武政権下での陸奥守は、北畠顕家で義良親王を奉じて国務に当たっていた。とすれば、鎮守府将軍は、有名無実の官職だったのだろうか。
 そもそも鎮守府将軍は、史料Xに「凡頼朝卿補之後、依重征夷之任、不並任鎮府、元弘以来被並任畢」とあるように源頼朝が征夷大将軍に補任されてからは並任されなかった重要な官職だった。このことは、征夷大将軍でなくとも将軍職への補任が大きな意味を持っていたことを示している。建武政権下における将軍職は、元弘三年八月下旬頃に護良親王が征夷大将軍を解任されてから建武二年八月一日に成良親王が征夷大将軍に補任されるまで鎮守府将軍の尊氏だけだった。成良の征夷大将軍への補任も、中先代の乱の追討に際して征夷大将軍への補任を望んだ尊氏への牽制と位置づけられる。さらに、尊氏離反後の建武二年十一月十二日には、後醍醐から軍事的に大きな期待を寄せられていた顕家が鎮守府将軍に補任されている。建武政権下でも鎮守府将軍職は、重要な官職と認識され軍事的権限と不可分の関係にあったのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/031c49c87e35829cc636a75dc2970f3b

「建武二年八月一日に成良親王が征夷大将軍に補任」に付された注(98)を見ると、これは例の『相顕抄』ですね。

『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666
成良親王についての一応の整理と次の課題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bad1ac040c2c8369349a1ddaaeb597d

さて、このあたりの議論は、今ではかなり古くなってしまった佐藤進一氏の見解と比較すると分かりやすいですね。
佐藤氏は征夷大将軍と鎮守府将軍を比較して次のように述べています。(『南北朝の動乱』、中央公論社、1965、p15以下)

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 ところで、護良の任ぜられた征夷大将軍という称号は、もともと文字通り蝦夷追討軍の総帥に与えられる臨時の職名であったが、源頼朝が武士の棟梁にもっともふさわしいものとしてこの称号を得て以来、鎌倉幕府の頭首は代々これに任ぜられる例となった。つまり征夷大将軍(略称、将軍家)は幕府の頭首たる地位のシンボルであった。したがってこの称号は権威的な地位のシンボルであって、なんら特定の権限をもつものではないから、この称号を獲得するだけでただちに幕府を創設し、その頭首になれるわけではないけれども、諸国の武士の帰服をもとめるうえにもっとも有力な無形の権威であることも事実だった。
 征夷大将軍がこういうものであるなら、武家政治を否定する後醍醐としては、それは絶対に復活させてはならぬはずであった。にもかかわらず、かれが護良にこれを許したのは、護良が高氏の野望を指摘して、これを封ずるためにみずからこの称号をもとめたからだといわれている。
 だが、すでに見たように尊氏は護良より一足さきに鎮守府将軍に任ぜられている。この称号もじつは一〇世紀の藤原秀郷以来、武士の棟梁にふさわしいものとして、ことに東国の武士の間に人気があった。畠山重忠といえば、源頼朝創業の臣として、また鎌倉武士の典型として知られる人物であって、事実、「重忠は頼朝にたいして謀反の心をいだいている」と頼朝に讒言するものがある、と友人の一人が重忠に告げたとき、「謀叛のうわさを立てられるのは武士の面目」と答えたほどの気骨ある武将だったが、その重忠が生涯、鎮守府将軍になる念願をすてなかったという話が東国武士の間に語りつがれていた。
 そうしてみると、高氏がこの称号を与えられたのは、やはり高氏の要望の結果であり、あるいはかれが征夷大将軍を切望したのにたいして、後醍醐はむげにこれを拒むことができずに、一段低い権威の鎮守府将軍を与えたのかもしれない。
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佐藤氏は頼朝が征夷大将軍を望んだというかつての常識を前提に論じておられる訳ですが、この点は櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」(『明月記研究』9号、2004)により、頼朝は「大将軍」を望んだのであって「征夷大将軍」を望んだわけではないこと、朝廷は「征夷」・「征東」・「惣官」・「上将軍」等から「征夷大将軍」を選んだことが明らかになっています。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462

ただ、頼朝の任官によって征夷大将軍が「もともと文字通り蝦夷追討軍の総帥に与えられる臨時の職名」から劇的に変化して、少なくとも源氏三代の期間は「武士の棟梁にもっともふさわしいもの」となっていたことは確かです。
しかし、摂家将軍以降はどうだったのか。
佐藤氏は征夷大将軍が鎌倉時代を通して「武士の棟梁にもっともふさわしいもの」、「諸国の武士の帰服をもとめるうえにもっとも有力な無形の権威」であったことを前提とされていますが、鎌倉時代に武家が征夷大将軍の地位にあったのは源氏三代の僅かな期間で、二代の「摂家将軍」を挟んで、宗尊親王以降は「親王将軍」が常識となっていたことは岡野友彦氏の力説されるところです。

「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52

吉原論文は2002年のものなので、吉原氏も「征夷大将軍でなくとも将軍職への補任が大きな意味を持っていた」といった具合に征夷大将軍が相当重い地位であることを前提として議論されています。
また、吉原氏は佐藤氏のように鎮守府将軍と東国武士の気風を強く結びつけている訳ではありませんが、鎮守府将軍は「源頼朝が征夷大将軍に補任されてからは並任されなかった重要な官職」であり、「このことは、征夷大将軍でなくとも将軍職への補任が大きな意味を持っていたことを示している」とされているので、鎌倉時代を通して鎮守府将軍についても相当の権威が維持されていたことを前提とされておられるようです。
しかし、征夷大将軍すら相対化されていた訳ですから、鎮守府将軍など「有名無実」になっていた、と考えるのが素直ではないですかね。
むしろ、後醍醐は鎮守府将軍を「本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である」といった古色蒼然たる由緒から切り離して、新たな意味を与えたと考える方が自然ではないかと思います。
こう考えても、建武政権下では「鎮守府将軍職は、重要な官職と認識され軍事的権限と不可分の関係にあった」とすることは可能であり、そして「尊氏離反後の建武二年十一月十二日には、後醍醐から軍事的に大きな期待を寄せられていた顕家が鎮守府将軍に補任」された訳ですから、吉原氏のこの推論は十分に合理性がありますね。
なお、顕家の鎮守府将軍任官の典拠は『公卿補任』です。(注100)

>筆綾丸さん
今年も宜しくお願いします。
確かにこのところ細かい議論ばかりになってしまっていますね。
私自身は掲示板で細かい議論をして、ツイッターで気楽に書くということでバランスを取っているのですが、ツイッターも全ての人に勧められるソーシャルメディアではないですからねー。
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