学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

四月初めの中間整理(その14)

2021-04-15 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月15日(木)09時54分49秒

尊氏周辺の女性シリーズ、釈迦堂殿とその母・無着、赤橋登子に続いて、登子の姉妹の赤橋種子を見て行きました。
といっても種子の事績は全然分からないのですが、その夫の正親町公蔭という人物は極めて興味深い存在です。
公蔭は京極派の歌人として国文学方面ではそれなりに有名ですが、歴史学では、家永遵嗣氏の最近の論文「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」(桃崎有一郎・山田邦和編『室町政権の首都構想と京都』所収、文理閣、2016)で初めて注目されるようになった人物と思われます。
家永氏は北朝崇光天皇の皇太弟・直仁親王との関係で公蔭に着目されたので、倒幕前の公蔭については特に検討されていませんが、私にとって興味深いのはむしろ鎌倉最末期に公蔭が置かれていた状況です。

赤橋種子と正親町公蔭(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a

公蔭の経歴で何といっても特徴的なのは「歌人京極為兼の養子となり、忠兼と名乗った」点です。
家格からいえば正親町家(洞院家)の方が京極家より遥かに高いのですが、忠兼は何故か京極為兼の養子(または猶子)となります。
そして正和四年(1315)、忠兼が十九歳のときに遭遇した京極為兼の失脚、ついで二度目の流罪という大事件により、それまで順調だった忠兼の人生も暗転し、以後十五年間、その官歴に長い空白期間が生まれます。
そして、「種子の産んだ忠季は元亨二年(一三二二)の誕生」なので、この空白期間に忠兼は赤橋種子と出会い、結婚したと思われます。
北条一門の中でも得宗家につぐ超名門、赤橋家のお嬢様である種子からすれば、流罪となった京極為兼の猶子で、公家社会における出世の見込みが全く閉ざされていた忠兼と結婚することに何のメリットがあったかというと、全くなかったと思います。
赤橋種子にとって全然メリットがなく、親や親族からは大反対されたであろうこの結婚に種子が踏み切った理由を考えると、もしかしてこの結婚は、当時の日本では稀な「恋愛結婚」なのではなかろうか、というのが私の想像です。

(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/546ccaccce6039b2783c37af31ff74c5

公蔭の経歴は井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)に的確に纏められているので、参照しました。

(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17cd878a675a47c28624985d51301d63

私も別に京極為兼の反幕府的思想が正親町公蔭、赤橋種子を通じて赤橋登子に、そして尊氏に影響を与えた、などと主張したい訳ではなくて、あくまで赤橋登子という(私の仮説が正しければ)日本史上稀有な「鉄の女」を生みだした知的環境を探っているだけです。

(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/588e84f3ea3f9104df0529410ddf29c0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4518f31a8cefeab913a45cf8cd28d541

『公卿補任』によると、正親町公蔭(忠兼)は正和四年八月蔵人頭となったものの、「十二月廿八日東使為兼卿を召し取りの時同車、但即ち赦免と云々、同五正十一頭を止む(宣下)。其の後辺土に籠居す」とのことです。
この「辺土」で公蔭と種子が婚姻生活を営んだと思われますが、具体的にどこかは分かりません。
ただ、やはり京都近郊ではなかろうかと思います。

(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39d230584728bf45b6a86b87eed73878

さて、「北条系図」(『続群書類従』系図部三十五)には赤橋久時に三人の女子がいたと書かれており、登子と種子は実在が明確ですが、もう一人の女子は系図自体に奇妙な点があります。
そして、「鎮西探題歌壇」で活躍した「平守時朝臣女」との関係も問題となってきます。
仮に「赤橋三姉妹」が実在したとすると、登子・種子以外の女子が守時の養女となり、「平英時にともなひて西国に」一時的に居住して、「平守時朝臣女」として鎮西探題歌壇の二つの歌集である『臨永集』と『松花集』、そして『新拾遺和歌集』に登場した可能性はあります。
また、仮に久時の女子が登子・種子の二人だけだとすると、種子が「平守時朝臣女」として二つの私家集、そして『新拾遺和歌集』に登場した可能性も一応は考えられます。

勅撰歌人「平守時朝臣女」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c91b274f8318bab508bec111024b3981
勅撰歌人「平守時朝臣女」について(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61c9760353c0c4f334014b78b8232f1
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四月初めの中間整理(その13)

2021-04-15 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月15日(木)08時35分46秒

鎌倉を脱出した後、千寿王(義詮)は新田義貞の軍勢に合流しています。
千寿王配下の人数は僅少で軍事的には殆ど意味がなかったでしょうが、尊氏の指揮で義貞が動いていたことを示す象徴的な効果があり、鎌倉攻めでは戦功抜群の義貞も後に鎌倉から京に拠点を移さざるをえなくなります。
この間、赤橋登子の動向ははっきりしませんが、僅か四歳の千寿王をめぐるこのような手際の良い采配が登子を蚊帳の外として行われたとは考えにくく、むしろ登子が積極的に主導したと考える方が自然だと思われます。

謎の女・赤橋登子(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b878e24056e3a1c120263f82ca51606

実家の一族が皆殺しになった場合、中世の女性の生き方としては、おそらく出家して一族の菩提を弔うのが常識的ではないかと思いますが、登子は出家はしませんでした。
また、「親兄弟の仇の筋」である夫と離縁することがなかったばかりか、義詮を産んだ十年後の暦応三年(1340)には基氏を産み、もう一人、女子(鶴王)も産んだようで、尊氏とは終生仲良く暮らしたようです。
現代人の感覚では、自分の親兄弟を皆殺しにした夫と一緒に普通に生活し、普通に子供を産んだりするのは相当に気持ちが悪い、というか、サイコパス的な不気味さを感じますが、登子はなぜにこうした生き方を選んだのか。
登子は今まで歴史研究者に殆ど注目されていなかった存在で、国会図書館サイトで「赤橋登子」を検索すると論文は僅かに一つ、谷口研語氏の「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』所収、文献出版、1997)のみです。
谷口論文を読んでみた結果、率直に言って、私には谷口氏の見解に賛同できる部分は全然なかったのですが、従来、登子がどのように見られていたのかを確認するため、谷口論文を少し検討してみました。

(その5)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e90942d529b1b3a7d0e87c141516fea5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ebebdda3a73c79bc24e9e45ff0b492
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b9ea58a03901c6047d60f9cd0cfedcc

谷口氏の赤橋登子論は『太平記』だけを素材とするもので、ホップ・ステップ・ジャンプと軽やかに論理が飛躍する谷口氏の見解は、結局のところ『太平記』の読書感想文ではあっても歴史学の「論文」とは言い難いものですね。
ただ、『太平記』が全く参考にならないかというとそんなことはなくて、類似の状況におかれた女性に関する『太平記』の記事と比較して、登子がいかなる女性だったかを考えることはそれなりに有効な手法と思われます。
登子の場合、その立場が一番似ているのは正中の変(1324)に巻き込まれた土岐頼員の妻ですね。

(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0795e6a342f63fb541278853f7aab332

ちなみに『太平記』には自刃直前の赤橋守時が中国の古典を引用して縷々感懐を述べる場面がありますが、実際に戦闘の渦中に置かれた守時がのんびりと中国古典を引用したりするはずがないので、ここは『太平記』作者の創作です。
ところが谷口氏は、この守時エピソードに基づき、「たとえ、鎌倉が陥落せず、北条得宗の専制体制が安泰であったとしても、尊氏の寝返りがわかった時点で、守時はおそらく登子をみずからの手で殺したにちがいない。いや、みずからの手で殺さざるをえなかったであろう。兄守時もまた、他に選択する道はなかったはずである」と想像を重ねます。
谷口説は学問的には何の価値もありませんが、『太平記』はここまで歴史研究者を惑わせるのか、という事例の一つとしては興味深いですね。

(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4961756736d97a173f9a995df7c06a75

また、谷口氏は『太平記』の「継母の讒」エピソードに基づき、登子が直冬に冷酷だったとされるのですが、これも亀田俊和氏の直近の研究に照らすと、「継母の讒」自体が『太平記』の創作と考える方がよいのではないかと思われます。
ただ、登子に対する歴史研究者の関心が極めて低かった理由のひとつとして、この「継母の讒」エピソードの影響はかなり大きかったようにも思われます。

(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f523dc6318081a68d0d6786e192c21b2
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