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「この軍議の席で、謀臣、赤松円心は……」(by 清水克行氏)

2021-04-22 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月22日(木)21時16分54秒

南北朝期を扱う一般書をいくつか眺めてみましたが、「持明院殿の院宣」に関して『梅松論』より『太平記』を信頼する歴史研究者はさすがにいないようですね。
『大日本史料 第六編之三』の延元元年二月十二日条を見ると、

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十二日、<己丑>尊氏航シテ鎮西ニ赴ク、途ニシテ院宣ヲ拝受シ、二十日、赤間関ニ達ス、

〔梅松論〕【中略】
〔神皇正統記〕【中略】
  〇尊氏直義西下ノ途次、或ハ書ヲ諸氏ニ移シ、或ハ所領ヲ与ヘ、寺領ヲ
   寄セシコト、又ハ将士ノ来リテ尊氏ニ属スル等ノコト、各文書ニ散見
   セリ、今其兵庫解纜ヨリ赤間関ニ至ルマテニ係レルモノヲ、左ニ合叙
   ス、
〔大友文書〕〇立花伯爵所蔵
 新院<〇光厳上皇、>の御気色によりて、御辺を相憑て鎮西に発向候也、忠節他にこ
 とに候間、兄弟におきては、猶子の儀にてあるへく候謹言、
 (建武三)二月十五日          尊氏(御判)
      大友千代松(氏泰)殿
【中略】
〔三池文書〕〇碩田叢史所収
 可誅伐新田義貞与党人等之由、所被下院宣也、早相催一族、馳参赤間関、可致
 軍忠、於恩賞者、可有殊沙汰之状如件、
      建武三年二月十七日     (尊氏)(花押)
       安芸杢助(貞鑒)殿
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ということで、佐藤著でも言及されている尊氏の大友千代松(氏泰)宛二月十五日付書状に「新院の御気色によりて」とあり、これは日程的には『梅松論』と合います。
また、ここに「新院」とあるので、『太平記』では「持明院殿」を後伏見院としているものの、実際には光厳院の院宣であったことも分かります。
他に二月十七日付の安芸杢助(貞鑒)宛軍勢催促に「所被下院宣也」とありますね。
まあ、二月初めに尊氏が「薬師丸」を使者として院宣を要請し、西下した尊氏が九州の戦争に勝利し、反転して京都へ向かう途中、五月に醍醐寺三宝院賢俊が厳島で院宣を尊氏に渡したが、その院宣は後伏見院のもので、肝心の後伏見院は三月六日(史実では四月六日)に崩御していた、という『太平記』の話は本当にいい加減ですね。
さて、院宣に関連して、清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)にも少し気になる叙述があります。(p59以下)

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この世は夢のごとく
 建武政権に叛逆してからの尊氏の一年は、転変に満ちている。京都を制圧したのも束の間、建武政権の最強軍団である北畠顕家軍が遠く奥州から西上し、正月二十七日、尊氏はたちまち京都を逐われることになる。足利軍は九州をめざし落ちのびてゆくが、この途上、いくつかの重要な施策を怠らなかった。
 まず、いわゆる元弘以来没収地返付令を発令し、味方についた者に建武政権より没収された所領を返却することを約束している。かねて建武政権に不満のあった武士たちは、この施策に飛びつき、尊氏のもとに続々と馳せ参じることになる。後に北畠親房が「朝敵を追討する合戦のはずなのに、みなの士気が上がらないのは、どうも変だ」(結城家文書)と首をかしげ、楠木正成が「負けたはずの尊氏側に在京している武士たちがついていってしまい、勝っているはずの帝の側が勢いを失っている」(『梅松論』)と慨嘆したのには、こうした事情が背景にあった。
 ついで二月十三日、播磨国の室津(現在の兵庫県たつの市)の軍議において、軍事指揮官として「国大将」を中国・四国地方に定める。これにより西国の武士たちが足利方として組織化された。また、この軍議の席で、謀臣、赤松円心は「すべて合戦には旗印というものが大事です。相手側は錦の御旗を先頭に掲げているのに対し、われわれはどこにもこれに対抗する旗印をもたないので、これでは朝敵も同然です」と発言し、大覚寺統の後醍醐に対抗するために、大胆にも持明院統の天皇を擁立すべきだと献言した。尊氏は、これを容れて、かつて鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳上皇に使者を送り、その院宣を獲得する。両統のうちどちらでも構わないから自分に都合のいい天皇を擁立してしまおうという、このときの尊氏の打算的な対応は、その後の南北朝~室町時代の政治に混迷をもたらす"パンドラの箱"を開けるに等しい行為であったが、当座においては尊氏軍に正当性を付与することにつながった。
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まあ、細かいことですが、『梅松論』を素直に読む限り、赤松円心の献言は「二月十三日、播磨国の室津(現在の兵庫県たつの市)の軍議」の席ではなく、十一日の夜更けに行われたようですね。
仮に十三日の室津軍議で院宣を得るための使者の派遣が決定され、直後に使者が京都に向けて出立したとしても、その翌々日、十五日に院宣を持参した賢俊が備後の鞆に到着するというのはいくらなんでも忙しすぎます。
南北朝時代に山陽新幹線があったというような仮定をしない限り、ちょっとあり得ない奇跡のスケジュールですね。
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