学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

山家著(その5)「丹波国篠村八幡宮のもつ意味」

2021-04-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月26日(月)21時54分3秒

続きです。(p13以下)

-------
 留意したい第三の点は、丹波国篠村八幡宮のもつ意味である。篠村は、現在の京都府亀岡市の東部、京都からみると西へ向かって老ノ坂を越えた場所にあり、京都出入りに要衝の地であった。一三三三年四月、尊氏は、幕府軍として上洛し、配流先の隠岐から脱出した後醍醐天皇を討つため、京都から西へ進軍する。しかしその途中、篠村八幡宮で後醍醐天皇側に立つことを明確にする。この時尊氏の捧げた願文が篠村八幡宮に伝わっている。また一三三六(建武三)年正月、尊氏は鎌倉から西上して入京したものの、陸奥から北畠顕家軍に追走され京都を脱出する。『梅松論』によると、二月一日篠村に陣をしき、ただちに京都に引き返さずに西に向けて体制を整えることとする。この日付で、尊氏が篠村八幡宮に丹波国佐伯庄地頭職を寄進した文書が伝わっている。こののち西国で支持者を集めることに成功し、西国を拠点とする室町幕府の原型が形成されることになる。
 丹波国篠村庄は、かつて源頼朝の周辺で伝領された所領であった。もと平重衡の所領で、平氏滅亡ののち源義経にわたり、義経は松尾の僧延朗に寄付している。延朗は八幡太郎義家の曾孫で、頼朝の曾祖父義親の孫にあたる人物である。また、頼朝の妹で一条能保妻となった女性の所領としても確認される。篠村は頼朝の色濃い場所であり、そこを選んで反幕府の挙兵を宣言している。尊氏を頼朝後継者に擬する演出とみなされる。また、丹波は足利氏にとって由縁浅からぬ地であったことも、背景としてみのがせない。有力被官上杉氏の出身地であり、自身でも丹波国内に所領をいくつかもっていた。こののち尊氏、続いて歴代の足利将軍は、篠村八幡宮に対して、別当職を補任するなど権限を保持している。あるいは挙兵以前の段階から、尊氏は篠村八幡宮と関わりをもっていた可能性も考えられよう。
-------

篠村八幡宮に伝わっている尊氏の願文は元弘三年四月二十九日付で、その内容は次の通りです。(参照:小松茂美『足利尊氏文書の研究 解説篇』、旺文社、1997、p40)

-------
敬白
 立願事
右八幡大菩薩者王城之鎮護我家之
廟神也而高氏為神之苗裔為氏之家督
於弓馬之道誰人不優異哉依之代々滅
朝敵世々誅凶徒于時元弘之明君為崇神
為興法為利民為救世被成 綸旨之間
随 勅命所義兵也然間占丹州之篠村
宿立白旗於楊木本爰於彼木之本有一之
社尋之村民所謂大菩薩之社壇也義兵
成就之先兆武将頓速之霊瑞也感涙暗催
仰信有憑此願忽為我家再栄者令
荘厳社壇可寄進田地也仍立願
如件
 元弘三年四月廿九日 前治部大輔源朝臣高氏<敬白>(裏花押)
-------

この願文の真偽をめぐっては古くからの論争がありますが、私には古文書学の知識がないので検討はしません。
ただ、『梅松論』には「当所篠村の八幡宮の御宝前において既に御旗を上げらる。柳の大木の梢に御旗を立られたりき」とあって、願文の「立白旗於楊木本」と符合しますね。
また、『太平記』にも尊氏が篠村八幡宮に捧げた願文が掲載されていますが、こちらは元弘三年五月七日付で、六波羅陥落のまさに当日ですから、願文の日付としては遅すぎる感じが否めません。
尊氏の位署も「源朝臣高氏敬白」という具合いに簡略で、『太平記』の一般的な創作性の高さを考えると、こちらはより信頼性は低いことになりそうです。
ま、それはともかく、山家氏は「篠村は頼朝の色濃い場所」とされ、尊氏が「そこを選んで反幕府の挙兵を宣言している。尊氏を頼朝後継者に擬する演出とみなされる」とまで言われる訳ですが、そもそも前提として山家氏の挙げる材料だけで「篠村は頼朝の色濃い場所」と言えるのか疑問です。
篠村庄は「もと平重衡の所領で、平氏滅亡ののち源義経にわたり、義経は松尾の僧延朗に寄付」したとのことですから、「かつて源頼朝の周辺で伝領された所領」ではなく「かつて源義経の周辺で伝領された所領」に過ぎません。
しかも「延朗は八幡太郎義家の曾孫で、頼朝の曾祖父義親の孫にあたる人物」ですから、義経そして頼朝にとってもずいぶん迂遠な関係です。
また、「頼朝の妹で一条能保妻となった女性の所領としても確認される」とのことですが、頼朝が直接支配した荘園は他にいくらでも存在しますから、この程度の関係で「篠村は頼朝の色濃い場所」とまでいうのも変ですね。
そもそも元弘三年(1333)四月に尊氏が篠村に入ったのは、鎌倉の指令ないし六波羅での軍議により名越高家が大手の大将として山陽道を、尊氏が搦手の大将として山陰道を経て伯耆に向かうと決定されたからで、その決定は尊氏個人の意思を超えており、尊氏が篠村へ行きたいと希望したからではありません。
「篠村は、現在の京都府亀岡市の東部、京都からみると西へ向かって老ノ坂を越えた場所にあり、京都出入りに要衝の地」ですから軍事面でも「要衝の地」であって、尊氏がここを拠点としたのは、複数の候補から六波羅攻略に最適の場所を選んだという、あくまで軍事上の判断に基づくものと考えるべきです。
「尊氏を頼朝後継者に擬する演出とみなされる」とはずいぶん凝った解釈ですが、これは尊氏が六波羅に圧勝することを知っている後世の歴史学者の悠長な感想であって、どんなに準備しても最終的な勝敗には時の運がつきまとうことを熟知している中世の武人の、これからまさに決戦に向かう時点での判断とは思えません。
だいたい尊氏と篠村との縁は二回あって、「一三三六(建武三)年正月」、「鎌倉から西上して入京したものの、陸奥から北畠顕家軍に追走され京都を脱出」した尊氏が篠村へ向かったのは、その時点で尊氏が京都から逃げ出すのに最適のルートだったからにすぎません。
「丹波は足利氏にとって由縁浅からぬ地」で、尊氏の「有力被官上杉氏の出身地であり、自身でも丹波国内に所領をいくつかもっていた」ことは、逃げ出すルートしては好ましい要素ですが、命からがら京都を逃げ出した尊氏にとって、頼朝の由緒など考える余裕もなかったはずです。
なお、一般書の中には篠村が足利氏の荘園であった、などと書いているものも散見しますが、篠村八幡宮の願文には「爰於彼木之本有一之社尋之村民所謂大菩薩之社壇也」、すなわち尊氏は楊の木の下にあった神社の祭神を知らず、村人に尋ねたところ、八幡大菩薩の社であることを知ったという訳ですから、この願文を信頼する限り、尊氏にとって篠村は全く初めての土地と考えるのが自然ですね。
この点は『太平記』でも同様で、五月七日、篠村の宿を立った尊氏は「いかなる社とは知らねども」神前に跪き、神職に「この社はいかなる神を崇め奉りたるぞ」と質問したところ、「篠村の新八幡宮」ですとの返事をもらったとされており、自分の所領の鎮守を知らない領主は珍しいと思います。
結局、史料編纂所教授の山家氏が調べても尊氏と篠村との間にこの程度の関わりしか見つけられなかったことは、「挙兵以前の段階から、尊氏は篠村八幡宮と関わりをもっていた可能性」が否定されたものと考えるべきです。
「こののち尊氏、続いて歴代の足利将軍は、篠村八幡宮に対して、別当職を補任するなど権限を保持」したのは、倒幕時にたまたま尊氏が篠村八幡宮と関わった結果、尊氏が篠村八幡宮の新しい由緒を作り出したからであって、山家氏の発想は原因と結果が逆転していますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山家著(その4)「直義の二度の敗走」

2021-04-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月26日(月)11時44分10秒

続きです。(p11以下)

-------
 直義は、建武政権下で従四位下、左馬頭・相模守となる。直義は新政権中枢に参画せず、一三三三(元弘三)年末に京都を離れ、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に赴いた。前々月、北畠親房・顕家が義良親王を奉じて陸奥に赴いており、息子を奉じて地方統治を行なう第二弾であった。鎌倉では、尊氏が人質として残した子息の千寿王(のちの義詮)が武士の中心としての立場を固めつつあった。新田義貞は、鎌倉を攻撃して北条氏を滅亡に導いた主力であったものの、千寿王を支持する勢力に押され、鎌倉を離れて上洛している。直義の鎌倉下向は、鎌倉を中心とする関東を足利氏が掌握するうえで大きな意味を持った。
-------

成良親王は征夷大将軍を経て皇太子にもなった人で、日本史上でも本当に稀有な経歴の持ち主ですが、誰もきちんと調べていないですね。
『太平記』には同母兄弟の尊氏・直義が同母兄弟の恒良・成良親王を鴆毒で毒殺したという陰惨なエピソードが記されていて、このエピソードが同じく『太平記』に記された尊氏による直義の鴆毒での毒殺エピソードを連想させることもあり、私には成良親王が何とも奇妙な存在に思えました。
そこで、従来の歴史学者にとって共通の盲点となっていたと思われる成良親王の征夷大将軍就任時期を中心に、成良親王の周辺を少し丁寧に調べてみました。

四月初めの中間整理(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74fe33d19ac583e472e42a86751cac5a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c

また、「千寿王を支持する勢力」とありますが、赤橋登子が産んだ千寿王は元徳二年(1330)生まれなので、鎌倉幕府滅亡の時点では僅か四歳です。
「人質」の千寿王が絶妙のタイミングで鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流して、結局のところ「鎌倉を攻撃して北条氏を滅亡に導いた主力であった」義貞を鎌倉から追い出すに至る経緯を見ると、私には同じく「人質」であった赤橋登子の役割が相当大きかったのではないかと思われます。
赤橋登子も研究上の盲点となっている女性ですが、少し詳しく検討してみました。

四月初めの中間整理(その12)(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f1db273cf73164c724151a329f3d535
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/493074c440687d0824d76e2a4d199323

さて、山家著の続きです。(p12以下)

-------
 室町幕府樹立までの過程で留意したい点として、次に直義の軍事行動を取り上げよう。この間、直義は尊氏とは別行動で二度敗走を経験している。一度は、北条時行軍が鎌倉に進攻した際のこと。鎌倉を明け渡して西走した。三河国矢矧で京都から下向した尊氏軍と合流している。もう一度は、時行の乱平定後に鎌倉にとどまった尊氏に対し、新田義貞軍が追討のため京都から東下した際のこと。直義と有力武将は協議して先行隊を派遣したが、三河国矢矧川で敗れ、ついで直義自身が出馬するも駿河国手越河原で敗れ、箱根山まで退いている。この時尊氏は、後醍醐天皇の意志に背くのは本意ではないと逡巡して鎌倉にとどまっていたが、周囲の説得あるいはみずからの状況判断で出陣を決意、箱根山で直義と二手に分かれた作戦が功を奏し、義貞軍を敗走させた。
 直義の二度の敗走は、軍事の大将としての実力に不安を感じさせ、尊氏の軍事面での統率力と比べると見劣りがする。一方で、新政権に対して不満を感じていた武将たちの意向を集約して、あらたな方向をめざすべく決断し、尊氏を担ぎ上げて成功に導いた政治力は卓抜している。直義のもつ、政権を構想して運営していく力量はすでにこの時点で発揮されているといえよう。
-------

「周囲の説得あるいはみずからの状況判断で」という書き方は若干微妙な感じもしますが、全体として、この部分は山家氏の独創的見解というより従来からの直義評を整理しただけですね。
『太平記』・『梅松論』に描かれた尊氏の「逡巡」が佐藤進一のような素人精神分析家(?)の不穏当な言説を生む原因になっていますが、「建武二年内裏千首」に寄せられた尊氏の詠歌二首は尊氏の安定した精神状態を語っているように見えます。
このような国文学者の歌壇研究の成果と歴史研究者の認識とのズレをどのように考えるべきか、という問題はもう少し検討を深めて行く予定です。

四月初めの中間整理(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山家著(その3)「政権樹立の過程」

2021-04-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月26日(月)09時33分51秒

続きです。(p11)

-------
 従来、後醍醐天皇をはじめ新政権首脳は、尊氏の発言力増大を警戒して彼を排除し、そのために、尊氏は然るべき役職を与えられなかったと説明されてきた。最近では、尊氏もまた、征夷大将軍は別として、それ以外の役職に執着することはなかったのではないかと考えられている。征夷大将軍については、尊氏は北条時行の乱平定に下向する際にこの職を望んだが許されていない。この時具体的な職名を付されたかどうかは諸史料で異なり、『神皇正統記』では「征東将軍」になったとする。のちに弟直義に政務をまかせたことから類推すると、建武政権下でも、尊氏は責任ある立場で政務の中心にいることを望まなかった可能性は高い。
-------

「征夷大将軍については、尊氏は北条時行の乱平定に下向する際にこの職を望んだが許されていない」とありますが、私は建武二年(1335)八月の時点では尊氏はそもそも征夷大将軍を望んではいなかったと考えています。
この点は『太平記』の描く二つの「二者択一パターンエピソード」の虚構性を検討しつつ、かなり詳しく論じたつもりです。

四月初めの中間整理(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f7b230dfc93365752e80eb88604bbfd

私見の骨子は昨年12月11日の投稿で予めまとめておきました。
その際、山家著にも少し触れておきましたが、基本的にこの時点での見通しを変更する必要は感じていません。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462

さて、尊氏が征夷大将軍を望んだという言説と尊氏を源頼朝になぞらえる言説は同時に発生しているように見えますが、山家氏のみならず尊氏と直義の「共同統治」を重視する立場の研究者は、尊氏を頼朝になぞらえた場合の、ある「不都合な真実」を直視すべきではないかと思われます。
即ち、尊氏が源頼朝ならば直義はいったい誰に当たるのか、という問題です。
直ちに範頼や義経の名前が浮かびますが、二人ともあまり縁起のよい存在とも思えません。
要するに尊氏を源頼朝の再来だと称えれば、それは必然的に頼朝による冷酷な「兄弟殺し」のエピソードを諸人に連想させることになり、これは二人の「共同統治」の正統性に暗い影を落とすことになります。
そして、あくまで結果的にということではあるものの、この不吉な「兄弟殺し」のエピソードは観応の擾乱により現実化することになります。
改めて尊氏が征夷大将軍となった経緯を鑑みると、尊氏は中先代の乱への対応で関東に下ってから関東往復と九州往復を経てちょうど一年後の建武三年(1336)八月、豊仁親王を新天皇(光明天皇)に戴いています。
そして、尊氏が望みさえすれば、この時点からいつでも征夷大将軍に就任できるはずだったと思われますが、実際に尊氏が征夷大将軍となるのは更に二年後、中先代の乱からは三年後の建武五年(=暦応元、1338)八月です。
このタイムラグはいったい何なのか。
私の仮説は、このタイムラグは尊氏と直義の「共同統治」を支える北朝・光明天皇の「支配の正統性」があまりに脆弱であることを憂慮した二人が、新たに「支配の正統性」を強化するための材料を探し求めた結果、いくつかの候補の中から、「兄弟殺し」のマイナス面を考慮しつつも、やはり征夷大将軍・源頼朝の偉人伝承に頼るしかないと判断するまでの逡巡を示唆している、というものです。
なお、中先代の乱に際して尊氏が征夷大将軍を望んだという話は、『太平記』以外に『神皇正統記』において、尊氏が「征夷将軍」を望んだとして出てきます。
即ち『神皇正統記』には、

-------
 建武乙亥の秋の比、滅ほろびにし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河の国までのがれにき。兵部卿護良の親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。【中略】
 高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98

とあります。
他方、この時期の史料としては一般に『太平記』より信頼性が高いとされる『梅松論』では、

-------
 扨、関東の合戦の事、先達て京都へ申されけるに依りて、将軍御奏聞ありけるは、「関東において凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責め入る間、直義無勢にして防ぎ戦ふべき智略なきによりて、海道に引き退きしその聞え有る上は、暇を給ひて合力を加ふべき」旨、御申度々におよぶといへども、勅許なき間、「所詮私にあらず、天下の御為のよし」を申し捨て、八月二日京を御出立あり。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあって、『梅松論』では尊氏は関東下向の勅許以外に何も望んでいません。
政治的立場は『梅松論』とは全く異なりますが、『神皇正統記』もそれなりに史料的価値が高いとされているので、「征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど」と明記されている点を無視することは許されません。
ただ、北畠親房は建武二年八月の時点で京都にいた訳ではなく、遥か遠くの奥州に滞在しており、『神皇正統記』を執筆したのも相当後です。
その間に尊氏・直義側は「支配の正統性」確立のための宣伝工作として征夷大将軍言説・頼朝言説を広めており、『神皇正統記』の「征夷将軍」の記載は尊氏・直義側の宣伝工作を反映しているだけではないか、と私は考えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする