投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月28日(水)08時36分44秒
山家著では厳密な章立てはなされていませんが、二番目の章「足利氏権威の向上」に入ります。
この章は、
-------
正統性の確立
京都での根拠地
頼朝の追善
北条氏の追善
後醍醐天皇の追善
頼朝の後継者尊氏
足利氏の優位性
神仏の付託
-------
という八節で構成されていますが、まず最初の「正統性の確立」から見て行きます。(p15以下)
-------
一三三六(建武三)年八月、光明天皇が即位し、十一月には、尊氏を中心とする政権の方向性が建武式目として公表され、新政権は歩みを始める。いわゆる室町幕府である。新政権をめぐる情勢は予断を許さないものだった。後醍醐天皇は、いったんは尊氏との和議を受け入れたものの、十二月には京都を脱出して吉野に拠点をおき、その後も、もう一方の政治勢力の核であり続けた。尊氏を擁する新政権は、幅広い支持をえるため、軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心する。一三三八(暦応元)年八月に尊氏は征夷大将軍となった。尊氏、そして足利氏が、鎌倉幕府の将軍と同等の存在として、加えてその後の諸勢力の継承者として、幅広い人びとに認知されるならば、新政権は他の勢力を排して安定へと向かうことが可能となる。ここでは、政権担当者としての正統性の確立について述べたい。
尊氏を中心とする政権にとって、継承者としての正統性を主張する場合、その根拠は三点ほどあげられる。まずは(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。より狭義には頼朝ら三代の鎌倉幕府将軍の後継者であることを意味し、ひいては鎌倉幕府将軍という地位の後継者を主張することにもつながる。またその将軍のもと政権の実権を掌握していたのは北条氏であった。そのため(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。さらに、尊氏らが継承する対象として、前政権である建武政権も忘れてはならない。そこで(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。この三点が主眼となろう。
-------
山家氏が「継承者としての正統性を主張する場合」と限定されているのは興味深いですね。
「支配の正統性」については、マックス・ウェーバーの余りに有名な三類型の議論があります。
「理念型」とは何か、みたいな難しい議論は避けて、ごく一般的・通俗的な理解によれば、「コトバンク」の「ブリタニカ国際大百科事典」解説にあるような、
-------
権威には,他者に命令し影響を与えるだけではなく,尊敬を集め,自発的に服従させる能力が含まれている。ある政治的支配が正統であると認められる場合は,政治権力が権威に源泉を置き,支配は権利となり,服従は義務となって,安定した支配関係が成立する。 M.ウェーバーは正統性の型を伝統的・カリスマ的・合法的の3つに分類した。世襲に代表される伝統的支配は前近代社会に,個人の強い個性・魅力に基づくカリスマ的支配は主として変動期社会に,ルールや手続きに依存する合法的支配は近代社会に当てはまる。
https://kotobank.jp/word/%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E6%80%A7-158997
といった話ですね。
仮に尊氏が頼朝のようなカリスマ的支配者で、地方で反乱を起こして自己の支配領域を徐々に拡大し、最終的には前政権を武力で圧倒して平和をもたらしたなら、それだけで「支配の正統性」としては十分で、「政権担当者としての正統性を示すことに腐心」するような必要はなかったはずです。
しかし、尊氏の軍事的勝利はなんとも中途半端なものであり、「伝統的支配」を体現する後醍醐が「京都を脱出して吉野に拠点をおき」、軍事的にもそれなりに頑張って「もう一方の政治勢力の核であり続けた」ために、「尊氏を中心とする政権」は「軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心」しなければならなくなった訳ですね。
では、尊氏が「支配の正統性」を主張しようとする場合、それは、「継承者としての正統性」を主張することに限られねばならないのか。
極端な例をあげると、仮に尊氏が非常に見事な法制度を考案して、誰もがその法制度に納得するような事態になれば「合法的支配」だけで充分で、「継承者としての正統性」を主張する必要もないはずです。
ま、前近代においては実際上そんなことはありえない訳で、山家氏が議論を「継承者としての正統性を主張する場合」に限定しようとすることは一応理解できますが、しかし、山家氏が挙げる三点、即ち、
(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。
(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。
(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。
の内、(2)は非常に分かりにくいですね。
尊氏が「伝統的支配」を体現する後醍醐の命を受けてやったことは「北条氏の実権」の否定です。
自らが否定した「北条氏の実権」を「継承」しなければならないとはいったいどういうことなのか、それは明白な矛盾ではないか、という疑問が生じてきます。
そして、実際に(2)に関する山家氏の説明を見ると、それは「北条氏の追善」に過ぎません。
果たして「北条氏の追善」が「北条氏の実権をも継承していること」と結びつくのか、他の説明が可能ではないか、と私は考えますが、その点は後で詳細に論じたいと思います。
山家著では厳密な章立てはなされていませんが、二番目の章「足利氏権威の向上」に入ります。
この章は、
-------
正統性の確立
京都での根拠地
頼朝の追善
北条氏の追善
後醍醐天皇の追善
頼朝の後継者尊氏
足利氏の優位性
神仏の付託
-------
という八節で構成されていますが、まず最初の「正統性の確立」から見て行きます。(p15以下)
-------
一三三六(建武三)年八月、光明天皇が即位し、十一月には、尊氏を中心とする政権の方向性が建武式目として公表され、新政権は歩みを始める。いわゆる室町幕府である。新政権をめぐる情勢は予断を許さないものだった。後醍醐天皇は、いったんは尊氏との和議を受け入れたものの、十二月には京都を脱出して吉野に拠点をおき、その後も、もう一方の政治勢力の核であり続けた。尊氏を擁する新政権は、幅広い支持をえるため、軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心する。一三三八(暦応元)年八月に尊氏は征夷大将軍となった。尊氏、そして足利氏が、鎌倉幕府の将軍と同等の存在として、加えてその後の諸勢力の継承者として、幅広い人びとに認知されるならば、新政権は他の勢力を排して安定へと向かうことが可能となる。ここでは、政権担当者としての正統性の確立について述べたい。
尊氏を中心とする政権にとって、継承者としての正統性を主張する場合、その根拠は三点ほどあげられる。まずは(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。より狭義には頼朝ら三代の鎌倉幕府将軍の後継者であることを意味し、ひいては鎌倉幕府将軍という地位の後継者を主張することにもつながる。またその将軍のもと政権の実権を掌握していたのは北条氏であった。そのため(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。さらに、尊氏らが継承する対象として、前政権である建武政権も忘れてはならない。そこで(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。この三点が主眼となろう。
-------
山家氏が「継承者としての正統性を主張する場合」と限定されているのは興味深いですね。
「支配の正統性」については、マックス・ウェーバーの余りに有名な三類型の議論があります。
「理念型」とは何か、みたいな難しい議論は避けて、ごく一般的・通俗的な理解によれば、「コトバンク」の「ブリタニカ国際大百科事典」解説にあるような、
-------
権威には,他者に命令し影響を与えるだけではなく,尊敬を集め,自発的に服従させる能力が含まれている。ある政治的支配が正統であると認められる場合は,政治権力が権威に源泉を置き,支配は権利となり,服従は義務となって,安定した支配関係が成立する。 M.ウェーバーは正統性の型を伝統的・カリスマ的・合法的の3つに分類した。世襲に代表される伝統的支配は前近代社会に,個人の強い個性・魅力に基づくカリスマ的支配は主として変動期社会に,ルールや手続きに依存する合法的支配は近代社会に当てはまる。
https://kotobank.jp/word/%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E6%80%A7-158997
といった話ですね。
仮に尊氏が頼朝のようなカリスマ的支配者で、地方で反乱を起こして自己の支配領域を徐々に拡大し、最終的には前政権を武力で圧倒して平和をもたらしたなら、それだけで「支配の正統性」としては十分で、「政権担当者としての正統性を示すことに腐心」するような必要はなかったはずです。
しかし、尊氏の軍事的勝利はなんとも中途半端なものであり、「伝統的支配」を体現する後醍醐が「京都を脱出して吉野に拠点をおき」、軍事的にもそれなりに頑張って「もう一方の政治勢力の核であり続けた」ために、「尊氏を中心とする政権」は「軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心」しなければならなくなった訳ですね。
では、尊氏が「支配の正統性」を主張しようとする場合、それは、「継承者としての正統性」を主張することに限られねばならないのか。
極端な例をあげると、仮に尊氏が非常に見事な法制度を考案して、誰もがその法制度に納得するような事態になれば「合法的支配」だけで充分で、「継承者としての正統性」を主張する必要もないはずです。
ま、前近代においては実際上そんなことはありえない訳で、山家氏が議論を「継承者としての正統性を主張する場合」に限定しようとすることは一応理解できますが、しかし、山家氏が挙げる三点、即ち、
(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。
(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。
(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。
の内、(2)は非常に分かりにくいですね。
尊氏が「伝統的支配」を体現する後醍醐の命を受けてやったことは「北条氏の実権」の否定です。
自らが否定した「北条氏の実権」を「継承」しなければならないとはいったいどういうことなのか、それは明白な矛盾ではないか、という疑問が生じてきます。
そして、実際に(2)に関する山家氏の説明を見ると、それは「北条氏の追善」に過ぎません。
果たして「北条氏の追善」が「北条氏の実権をも継承していること」と結びつくのか、他の説明が可能ではないか、と私は考えますが、その点は後で詳細に論じたいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます