学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その51)─「胤義がもっとも饒舌に話す慈光寺本『承久記』」(by 高橋秀樹氏)

2023-11-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
高橋秀樹氏は『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)において、慈光寺本の藤原秀康と三浦胤義の密談について、胤義の空想的な鎌倉攻撃案を含め、全て史実と考えるかのような書き方だったので、私は、

-------
うーむ。
慈光寺本『承久記』を引用するにしても、例えば「軍記物語であるから創作的要素は含まれているだろうが」といった留保があればよいと思いますが、高橋氏は「義村が胤義の子三人を殺して異心なきことを義時に誓い、幕府軍が上洛した後、鎌倉に残った義村ら三浦勢で義時を討つように勧めます」という具合いに、丸々慈光寺本を信じ込んでいるかのような書き方ですね。
小説家やエッセイストならともかく、歴史研究者として、この態度はどうなのか。
酒を飲んでの藤原秀康と三浦胤義の密談は古活字本にも出てきますが、既に紹介済みの詳細な手紙の文面は慈光寺本だけに出て来る話です。
慈光寺本の作者はいったいどこからこの文面を入手したのか、といった疑問は、高橋氏の頭の中には浮かんで来ないのでしょうか。
まあ、一般常識があれば、少なくとも胤義の手紙は、慈光寺本の作者がストーリーにリアリティを出すために創作したものと考えると思いますが、それは高橋氏にとって常識ではないのでしょうか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

などと書いたのですが、先月出たばかりの『人物叢書 三浦義村』(吉川弘文館、2023)では、さすがに表現を若干改めておられますね。(p128)

-------
 胤義は秀康の宿所に招かれ、酒を飲みながら、三浦・鎌倉を振り捨てて後鳥羽上皇に仕えることを勧められた。胤義と秀康の会話が、軍記物の創作であることはいうまでもない。ここでは、胤義がもっとも饒舌に話す慈光寺本『承久記』によって、その内容を紹介しておこう。
 胤義は、心中では後鳥羽上皇に仕えたいと思っていたこと、胤義の妻は元頼家の妻で頼家との間に男子を産んでいたが、頼家は北条時政に、男子は義時によって殺害され、胤義との結婚後も日々泣き暮らしていたので、鎌倉に一矢報いたいと思っており、上皇の命を受けるのは名誉なことであると述べた。そして、兄義村の許に手紙を送り、その手紙に、「胤義が上皇に召されて謀反を起こしたら、義時は大軍を上洛させて内裏を取り巻いて謀反人を追及するでしょう。義村には三浦に置いてきた胤義の子三人を義時の前に連れていって首を切り、義時に隔心のないことを示してほしい。諸国の武士が上洛しても義時は上洛せずに、三浦の人々に勧めて義時を討ち、義村と胤義とで日本国を知行しましょう」と書いたならば、義時を討つことは容易であろう。早く軍議を開いてほしいと語った。
-------

いったん、ここで切ります。
この部分、慈光寺本には、

-------
胤義ガ兄駿河守義村ガ許ヘ文ヲダニ一下ツル物ナラバ、義時打取ランニ易候。其状ニ、「胤義ガ都ニ上リテ、院ニ召レテ謀反ヲコシ、鎌倉ニ向テ好矢一射テ、今日ヨリ長ク鎌倉ヘコソ下リ候マジケレ。去バ昔ヨリ八ケ国ノ大名・高家ハ、弓矢ニ付テ親子ノ奉公ヲ忘レヌ者ナレバ、権大夫ハ大勢ソロヘテ都ヘ上セテ、九重中ヲ七重八重ニ打巻テ、謀反ノ輩責玉ハンズラン。駿河殿ハ、権大夫ト一ニテ、三浦ニ九七五ナル子供三人乍、権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ。サヤウ成ヌル物ナラバ、殿ト権太夫殿、中ハ隔心ナクシテ、諸国ノ武士ハ上トモ、殿ハ上ズシテ、三浦ノ人共勧仰セテ、権太夫ヲ打玉ヘ。打ツル物ナラバ、胤義モ三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行セン」ト、文ダニ一下ツル者ナラバ、義時討ンニ易候。加様ノ事ハ延ヌレバ悪候。急ギ軍ノ僉議候ベシ」トゾ申タル。能登守秀康ハ、又此由院奏シケレバ、「申所、神妙也。サラバ急ギ軍ノ僉議仕レ」トゾ勅定ナル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

とあって、胤義は義村に、北条義時に対して「隔心」のないことを示すため、自分の「三浦ニ九七五ナル子供三人」を「権太夫ノ前ニテ頸切失給ヘ」と依頼し、自分は「三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行セン」と望む訳ですから、何とも浅ましい話ですね。
さて、続きです。(p129)

-------
 慈光寺本の胤義の発言のなかに、義村に対する評価は記されていないが、他の三本は義村に対する真逆の評価を載せている。古活字本と『承久軍物語』は、「兄の三浦駿河守は極めて「鳴呼〔おこ〕の者」(愚かな者)なので、日本国惣追捕使にしてやると仰れば、よもや断ることはないでしょう」と、胤義に語らせる。一方、前田本は「兄の義村は、はかりごとが人より優れていて、一家は繁栄しており、義時からも心やすく思われています。胤義が、義時を討って下さい。日本国惣御代官は疑いないでしょうと申したならば、嫌な顔をせずに討ってくれるでしょう」と記している。胤義の発言は物語の創作であるから、その真偽が問題なのではない。『承久記』の創作に関わった京都周辺の知識人層に、義村、あるいは義村を含む東国武士に対して二通りの見方があったことが重要だろう。前田本の「はかりごとが人よりも優れている」という評価は、先に八〇頁で紹介した慈円『愚管抄』の義村評と重なる。
-------

ということで、先に「胤義と秀康の会話が、軍記物の創作であることはいうまでもない」とありましたが、ここで再び「胤義の発言は物語の創作であるから、その真偽が問題なのではない」と強調されておられますね。
ただ、私には高橋氏が慈光寺本の諸本の成立年代を論ぜず、慈光寺本・古活字本(流布本)・『承久軍物語』・前田本を並列的に論じておられることが気になります。
この点、次の投稿で少し検討します。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「慈光寺本妄信歴史研究者交... | トップ | 「慈光寺本妄信歴史研究者交... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事