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慈光寺本と流布本での亀菊エピソードの比較

2023-01-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

亀菊エピソードは慈光寺本と流布本の異同が鮮明に現れている箇所なので、少し丁寧に見ておきます。
両者の一番の違いは北条義時の人物像ですね。
慈光寺本では、実朝暗殺の場面の後、前回投稿で紹介した部分の前に、

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 朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」。同年夏ノ比、相模守時房ヲ都ニ上〔のぼせ〕テ、帝王ニ将軍ノ仁〔じん〕ヲ申サレケリ。当時ノ世中〔よのなか〕ヲ鎮〔しづ〕メントテ、右大将公経卿外孫、摂政殿下ノ三男、寅年寅日寅時ニ生レ給ヘレバ、童名〔わらはな〕ハ三寅〔みとら〕ト申〔まうす〕若君ヲ、建保七年六月十八日、鎌倉ヘ下〔くだし〕奉ル。風諫〔ふうかん〕ニハ伊予中将実雅〔さねまさ〕、後見ニ右京権大夫義時トゾ定メ下サレケル。争〔いかで〕カ二歳ニテハトテ、三ト云名ヲ付奉リテ、十八日ヨリ廿日マデ、年始元三〔ぐわんざん〕ノ儀式ヲ始テ御遊〔ぎよいう〕アリ。七社詣〔まうで〕シテ鎌倉ニ座〔おはしま〕ス。
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とあって(新日本古典文学大系、p304)、野心的で傲岸不遜な義時像が強調されます。
この義時像は、官軍の敗北が確定した後の場面で、

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 去程〔さるほど〕ニ、六月十五日巳時〔みのとき〕ニハ、武蔵守六波羅ヘ著〔つき〕給フ。同十七日午時ニ、式部丞モ六波羅ヘ著給フ。其時、武蔵守ハ御文急〔いそぎ〕鎌倉ヘ参〔まゐら〕セラル。「東国ヨリ都ヘ向〔むかひ〕シ人々ノ、水ニ流ルゝトモナク討ルゝトモナク、一万三千六百廿人ハ死〔しに〕タリ。泰時ト同ク都ヘ著テ、勧賞〔けんぢやう〕蒙〔かうぶ〕ラント申〔まうす〕人々、一千八百人也。所附〔ところづけ〕シテ賜ルベク候。又、院ニハ誰ヲカ成〔なし〕マイラスベキ、御位ニハ誰ヲカ附マイラスベキ。公卿・殿上人ヲバ、イカゞハカラヒ申ベキ。条々〔でうでう〕、能々〔よくよく〕計〔はからひ〕仰給ベシ」トゾ申サレタル。権太夫ハ、此状ヲ御覧ジテ申サレケル。「是〔これ〕見給ヘ、和殿原。今ハ義時思フ事ナシ。義時ノ果報〔くわほう〕ハ、王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔〔むかしの〕報行〔ほうぎやう〕、今一〔いまひとつ〕足ラズシテ、下臈〔げらふ〕ノ報ト生マレテリケル」トゾ申サレケル。
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と描かれる、泰時からの勝利の報告を人々に見せびらかす義時像(p351以下)と完全に対応していますね。
他方、流布本では、義時の紹介と亀菊エピソードの間に仁科盛遠エピソードが入っていますが、これを含めても分量は慈光寺本の半分程度で、内容もあっさりしていますね。
即ち、

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 其比、鎌倉に右京権大夫兼陸奥守平義時と云ふ人あり。上野介直方に五代の孫、北条遠江守時政が次男なり。権威重くして国中に被仰、政道正しうして、王位を軽しめ奉らず。雖然〔しかりといへども〕、不計〔はからざる〕に勅命に背き朝敵となる。其起〔おこり〕を尋れば、信濃国の住人、仁科二郎平盛遠と云ふ男あり。十四・十五の子ども、未〔いまだ〕元服もせさせず、宿願有に依て、熊野へ参りける。折節、一院、御熊野詣で有けるに、道にて参合ぬるに、「誰ぞ」と御尋有しかば、「然々〔しかじか〕」と申。「清気なる童なれば、召仕れん」とて、西面にぞ被成ける。子共が召るゝ間、面目の思をなして、盛遠もゝう参りけり。権大夫、此事伝承りて、「関東御恩の者、被免〔ゆるされ〕も無て、院中の奉公不心得」とて、関東御恩二箇所、没収〔もつしゆ〕せられぬ。盛遠、嘆き申間、院中に此事聞召〔きこしめ〕されて、盛遠が所領を返し被付べき由、院宣を被下〔くださる〕といへ共、権大夫更に不奉用。
 又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。
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とのことで(松林靖明校注『新訂承久記』、p54以下)、義時は「権威重くして国中に被仰、政道正しうして、王位を軽しめ奉らず。雖然、不計に勅命に背き朝敵となる」という立派な人物として描かれています。
さて、亀菊エピソードそのものを比較すると、慈光寺本は530字ほど、流布本は230字ほどで、流布本の分量は慈光寺本の約43%ほどです。
そして、慈光寺本では亀菊は「舞女」で、「長江庄三百余町」を一期限りで後鳥羽院から「宛行」られており、亀菊の父親や藤原能茂も登場し、後鳥羽院は義時に対し、「余所ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進スベシ」という長江庄に執着した「院宣」を下し、義時の方も「如何ニ、十善ノ君ハ加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」という長江荘にとことん執着した態度で後鳥羽院の「院宣」を断固拒否したのだそうです。
ま、義時の方はそう思っただけなのか、それともその旨の内容の「請文」を後鳥羽に送り返したのかは不明ですが。
これに対し、流布本では亀菊は「白拍子」であり、長江庄だけでなく「長江・倉橋の両庄」の「領家」で、後鳥羽院は「両庄の地頭可改易」を命じますが、慈光寺本と同様、義時はこれを拒否します。
しかし、慈光寺本では、長江荘は「右大将家ヨリ大夫殿【義時】ノ給テマシマス所」という設定なので、義時は「長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」とのことで、自分自身が頼朝からの御恩として得た所領だから絶対拒否、という態度なのに対し、流布本では義時はあくまで頼朝が「勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無」という幕府側の原理原則論を主張しているだけです。
即ち、慈光寺本では義時自身の私利私欲を主張しているのに、流布本では御家人一般の利益を代表して主張しているだけですね。

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