学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「そのように発想を転換した場合、楠木正成の果たした役割は極めて大きい」(by 呉座勇一氏)

2020-09-07 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月 7日(月)10時30分45秒

鎌倉幕府滅亡の原因について、「階級闘争史観」の立場から提示されてきた諸学説をことごとく撫で斬りにされた呉座勇一氏は、更に「日本の歴史学界」における「体制崩壊の直接的契機より体制の構造的矛盾を指摘した方がエラいという風潮」を批判されます。
そして、「体制の構造的矛盾」ではなく「体制崩壊の直接的契機」、即ち「鎌倉幕府が滅亡するに至ったきっかけ」を「真剣に考えてみることも必要」だと主張されるのですが、しかし、その後で呉座氏が具体的に提示する「体制崩壊の直接的契機」は、私にはいささか拍子抜けの回答でした。(p101以下)

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 そのように発想を転換した場合、楠木正成の果たした役割は極めて大きい。元徳三年(一三三一)四月、吉田定房の密告により後醍醐天皇の討幕計画が幕府にもれ、幕府が後醍醐の処分を決めかねている間に後醍醐は京都を脱出、九月には山城国(現在の京都府)の笠置山(上の地図参照)にたてこもった。楠木正成はこれに呼応して挙兵し、河内国の赤坂・千早の両山城(現在の大阪府(現在の大阪府南河内郡千早赤阪)を拠点に一年半にわたって山岳ゲリラ戦を展開したのである。
 大軍をもってしても千早城を落とせない、鎌倉幕府、というか北条氏の"不敗神話"が崩れていく。勝ち続けることで支配の正当性を維持してきた北条氏にとって、これは致命傷であった。人々が<鎌倉幕府の存在しない社会>という可能性を想像し始めたことで、今まで心中に秘めてきた不平不満が一挙に噴出していく。
 市沢哲氏は、千早城を攻囲する武士たちが、厭戦気分にとらわれていく中で倒幕という選択肢の存在に気づき、その意思を共有していったのではないか、と推測している。千早城合戦は鎌倉幕府にとって、蟻の一穴だったのである。
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うーむ。
「鎌倉幕府滅亡の根本的原因」・「体制の構造的矛盾」についての諸学説をバッサバッサと切り捨て、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」的状況を作り出した呉座氏の手腕は見事ですが、しかし、呉座氏自身が提示する「体制崩壊の直接的契機」についての回答が「楠木正成が頑張りました」なので、正直、いささかコミカルな印象を受けます。
「北条氏の"不敗神話"が崩れていく。勝ち続けることで支配の正当性を維持してきた北条氏にとって、これは致命傷であった。人々が<鎌倉幕府の存在しない社会>という可能性を想像し始めたことで、今まで心中に秘めてきた不平不満が一挙に噴出していく」云々も、安っぽい二時間テレビドラマのストーリーとしては見事ですが、実証を重んじる歴史研究者の叙述としてはいかがなものか。
呉座氏が集団心理に着目したこと自体は評価できそうですが、しかし、「北条氏の"不敗神話"」=「勝ち続けることで支配の正当性を維持」→「<鎌倉幕府の存在しない社会>という可能性を想像」→「今まで心中に秘めてきた不平不満が一挙に噴出」という心理過程を実証的に根拠づけることはおそらく無理でしょうね。
市沢哲氏の「千早城を攻囲する武士たちが、厭戦気分にとらわれていく中で倒幕という選択肢の存在に気づき、その意思を共有していった」という心理過程の「推測」も、同様に実証的に根拠づけることはおそらく無理で、あくまで「推測」もしくは「憶測」、または「妄想」に止まらざるをえないと思います。
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