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「正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王」(by 三好千春氏)

2019-05-05 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 5日(日)19時00分54秒

三好論文に戻って、続きです。(p54以下)

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第二章 後宇多後宮における姈子内親王の位置
 第一節 姈子内親王の婚姻

 前述したように姈子の願文は、彼女の半生における重大事が列挙されているが、その中でも立后に並んで重要なのが、遊義門院号宣下後に後宇多後宮となる点である。女院となった後に婚姻する事例は、姈子が史上ほぼ唯一と考えられる(1)。
 姈子が入る以前の後宇多後宮はどのような状況であったのかを概観すると、最大の特徴が在位中の後宇多に正后が不存在であった点である。後伏見や花園のような在位年数が短い場合や中継ぎであることがはっきりしている天皇ならともかく、後宇多は亀山の正嫡、すなわち今後の嫡流と目されていた天皇である。在位期間も十三年に及び、この後宮に正后不在というのはかなり異様な状況ではないだろうか。その理由として『増鏡』(老の波)は、前章で触れた今出河院嬉子の一件を挙げている。しかし、西園寺氏以外にも后妃を出し得る家として、洞院氏や摂関家が存在しているのに、そこからも立后がなされないのはやはり不自然と言わざるを得ない。

(1)もう一例、永嘉門院瑞子女王も女院号宣下後の後宇多後宮かと思われるが(『増鏡』浦千鳥)、近年の研究では婚姻関係そのものを否定する向きもある(菊地大樹「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」(『歴史学研究』七四七号、二〇〇一年)
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三好氏は「在位中の後宇多に正后が不存在であった」と言われますが、三好氏が「正后」をどのように定義しているのかは明確ではありません。
ごく普通の用法では天皇の「正后」は中宮か皇后ということになります。
姈子内親王は「尊称皇后」ですが、これは研究上の用語であって、史料には「皇后」ないし「皇后宮」として登場します。

尊称皇后・女院・准三宮について(岩佐美代子氏『内親王ものがたり』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1127672909a87ca26c9cbb8c4e95e86d

そして「皇后」姈子の許には「皇后宮大夫」(徳大寺公孝)、「皇后宮権大夫」(西園寺公衡→洞院実泰)も置かれており、当時の公家社会の人々の認識としては、弘安八年(1285)八月以降、「在位中の後宇多に正后が」存在していたはずです。
後の文章で、三好氏は「後宇多には頼りになるパートナー=正妻が不在のままだったのである」(p55)と書かれているので、「頼りになるパートナー」=「正妻」=「正后」なのかもしれませんが、「頼りになるパートナー」が学問的な概念といえるか疑問です。

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 院政期以降、天皇家の後宮構成の主導権が摂関家から天皇家に取り戻された(2)とはいえ、それは天皇の正后妃候補を「上皇養子」にして入内させる(3)という、家長である治天の君が実質的に掌握していた形である。従って後宇多後宮に正后が不存在なのも、亀山院の考えによるところが大きかったのではないだろうか。のちに後二条が即位した際、治天の君となった後宇多は嫡子のために正妻を選出し、自らの養女に迎えている(4)。そしてそれは、西園寺氏ではなく徳大寺氏であったことも見逃せない事実である(5)。
 在位中はついに正后を持たなかった後宇多であるが、退位後は「心のままにいとよくまぎれさせ給ふ程に」(6)適当な女性を迎えていたようである。その後宮から輩出された女院は、西華門院源基子(後二条生母)、談天門院五辻忠子(後醍醐生母)、万秋門院一条頊子がいるが、そんな中で正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王であり、彼女たちの女院号宣下は、実は全て姈子の没後のことである。

(2)伴瀬明美「院政期における後宮の変化とその意義」(『日本史研究』四〇二号、一九九六年)
(3)鈴木英雄「天皇養母考」(『中世日本の諸相』上、吉川弘文館、一九八九年)。直近の事例としては西園寺公子(後嵯峨養女、後深草中宮)、西園寺寧子(伏見養女、後伏見妃)等。
(4)『実躬卿記』正安四年二月一日条。「如此有沙汰、且毎度例歟」とあり、上皇養子が定着していることがわかる。
(5)徳大寺公孝娘・忻子。公孝は後宇多の東宮権大夫であり、姈子の皇后大夫も務めている。
(6)『増鏡』浦千鳥。
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「正后妃候補」、「後宇多は嫡子のために正妻を選出」、「正妻格として出現」と三好氏の表現は多様で、「正后」と「正妻」との関係ははっきりせず、まして「正妻格」となると何を言いたいのか良く分かりません。
なお、『増鏡』の巻十二「浦千鳥」は徳治二年(1307)から文保元年(1317)までの出来事を記しており、弘安八年(1285)の姈子内親王の立后や永仁二年(1294)の後宇多院による略奪婚(?)からは隔たった時期になります。
三好氏が引用される箇所の原文は、

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 院の上は位におはせし程は、中々さるべき女御・更衣もさぶらひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後、心のままにいとよくまぎれさせ給ふ程に、この程はいどみ顔なる御かたがた数そひ給ひぬれど、なほ遊義門院の御心ざしにたちならび給ふ人は、をさをさなし。
 中務の宮の御女もおしなべたらぬさまにもてなし聞え給ふ。すぐれたる御おぼえにはあらねど、御姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号ありき。永嘉門院と申し侍りし御事なり。
 また一条摂政殿の姫君も、当代、堀河の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に十六にて参り給ひて、初めつ方は基俊の大納言うとからぬ御中にておはせしかば、彼の大納言東下りの後、院に参り給ひし程に、殊の外にめでたくて、内侍のかみになり給へる、昔おぼえておもしろし。加階し給へりし朝、院より、
  そのかみにたのめし事のかはらねばなべて昔の世にや帰らん
御返し、内侍のかんの君 頊子とぞ聞ゆめりし、
  契りおきし心の末は知らねどもこのひとことやかはらざるらん
 露霜かさなりて程なく徳治二年にもなりぬ。遊義門院そこはかとなく御悩みと聞えしかば、院の思し騒ぐこと限りなく、よろづに御祈り・祭・祓へとののしりしかど、かひなき御事にて、いとあさましくあへなし。院もそれ故御髪おろしてひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。その程、さまざまのあはれ思ひやるべし。悲しき事ども多かりしかど、みなもらしつ。

http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm

というもので、遊義門院崩御の直前に出てくる文章です。
この場面、特に万秋門院についての記述には謎が多いですね。
『増鏡』の作者は明らかに様々な事情を熟知しながら、あえて曖昧な表現で記述しています。

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