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「刑部卿の君」考

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)12時14分25秒

前回投稿で引用した部分、「ひがしの御方」の次に「刑部卿の君も弾かれけり」とありますが、井上氏は特に説明を加えていません。
ただ、「巻八 あすか川」の文永五年(1268)二月十七日に行われた富小路殿舞御覧の場面に、

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 万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池のみぎはに桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲などあり。日暮らしおもしろくののしりて帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出だす。右大将取りて院の御前に気色ばみ給ふ。……
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と「刑部卿の君」が再び登場し(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p124)、井上氏はこちらでは「刑部卿孝時女。後嵯峨院後宮。覚助法親王らの母」(p128)、と注記されています。
また、「巻十 老の波」の弘安元年(1278)頃の記事に、

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 その頃、大宮院いと久しく悩ませ給へば、本院も新院も常に渡り給ひて、夜などもおはしませば、異御腹の法親王、姫宮たちなども、絶えず御とぶらひにまうでさせ給ふ中に、故院の位の御時、勾当の内侍といひしが腹に出で物し給へりし姫宮、のちには五条の院と聞こえし、いまだ宮の御程なりしにや、いと盛りにうつくしげにて、切に隠れ奉り給ふを、新院あながちに御心にかけてうかがひ聞え給ふ程に、この御悩みの頃、いかがありけん、いみじう思ひの外にあさましと思し嘆く。
 かの草枕よりはまことしう、にがにがしき御事にて、姫宮まで出できさせ給ひにき。限りなく人目をつつむ事なれば、あやしう誰が御腹といふこともなくて、院の御乳母の按察の二位の里に渡し奉り給へり。幼き御心にもいかが心え給ひけん、「宮の御母君をば誰とか申す」と人の問ひ聞ゆれば、「いはぬ事」とのみぞいらへさせ給ひける。
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という具合に、亀山院が異母妹の懌子内親王(五条院、1262-94)に子供を生ませて、その子が人から母親は誰かと聞かれたら「それは言わないこと」とだけ答えたという有名な話がありますが、井上氏は「勾当の内侍」に「ここでは刑部卿藤原孝時女」と注記されています。(p248)
時枝誠記・木藤才蔵校注の『日本古典文学大系87 神皇正統記・増鏡』(岩波書店、1965)でも、井上氏同様、「巻七 北野の雪」の「刑部卿の君」には特に注記せず(p324)、「巻八 あすか川」の「刑部卿の君」に「後嵯峨院の妃。覚助法親王の母」(p333)と注記し、「巻十 老の波」の「勾当内侍」に「刑部卿藤原孝時の女。刑部卿の君」と注記しています。
ところで、琵琶の世界では「刑部卿の君」ないし「刑部卿局」はかなり有名な人で、岩佐美代子氏の『校注 文机談』(笠間書院、1989)には、

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 本院〔後深草〕たへぬるあとををこして四絃をきこしめす。御比巴始には今出河太相国<公相>のおほきをとどまいらせ給。ないない尾張内侍とて孝時二女、後刑部卿局さぶらひ給ければいみじくきこしめされけり。孝時のながれ、世にあまねくきこえ侍しかども、このおとどのみぞ御きりやうもいみじくて、まめやかのやういうかやをくわふべきてまでもそこをきわめさせ給ぬるとは承し。【中略】西園寺の一切経くやうとてひととせいみじきはれの侍しにも、主上〔後深草〕御比巴<本院>、東宮〔亀山〕御笛<新院>、いまだきびはなる御よはひながらめでたくあそばされにき。末代の美談なり。
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とあり、「尾張内侍とて孝時二女、後刑部卿局」が後深草天皇の琵琶の師であり、藤原孝時の沢山の弟子の中でも特に優れていた西園寺公相と親しかったことが記されています。(p28以下)
そして岩佐氏はこの女性について「藤原博子。後嵯峨院に侍して覚助法親王らを生む」と注記しています。
他方、岩佐氏は『弁内侍日記』寛元四年(1246)の、

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五月の廿日余り、有明の月くまなくて、ことに面白く侍りしに、御直廬にて御連歌ありしこそ、いと優しく侍りしか。た家、為継ばかりにて、人数も少なかりしかば、いとしまざりし程、「このついでに勾当内侍の琵琶を聞かばや」と仰事ありしかども、……
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という記事の「勾当内侍」に「掌侍<ないしのしょう>の首席。藤原孝時女、博子。音楽の名手。後深草院の琵琶の師。『古今著聞集』等に逸話が多い」とも注記されています(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p148)。
これらの記述を読むと藤原孝時女・博子がいつ生まれたのかが気になってきますが、博子が生んだ覚助法親王は宝治元年(1247)生まれ、懌子内親王は弘長二年(1262)生まれなので、仮に覚助法親王を生んだ時に二十歳とすると博子は安貞二年(1228)生まれとなりますね。
岩佐氏によれば藤原孝時は文治五年(1189)頃の生まれで文永三年(1266)に没しており(『校注 文机談』p23)、父親との年齢差は四十歳程度ですからおかしくはありませんが、ただ、勾当内侍は女官の中でもかなり重要な役目なので、少し若すぎるような感じがしないでもありません。
以上、細かい話になりましたが、もしかしたら私があれこれ考えたようなことは既に先行研究によって解決済みのような感じもしますので、何か御存知の方がいらっしゃればご教示願いたく。

覚助法親王(1247-1336)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E5%8A%A9%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
懌子内親王(1262-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%8C%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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