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『五代帝王物語』に描かれた「富小路殿舞御覧」と「後嵯峨院五十賀試楽」

2018-01-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月30日(火)11時47分4秒

それでは『増鏡』の記述と比較するために、『増鏡』著者が参考資料としているのが明らかな『五代帝王物語』の関連部分を見てみます。(『群書類従・第三輯』、p447以下)
『増鏡』には「後嵯峨院五十賀試楽」が文永五年(1268)閏正月二十四日に、「富小路殿舞御覧」が翌二月十七日に行われたと書かれていますが、実際には「富小路殿舞御覧」が文永四年(1267)十二月二十四日に、「後嵯峨院五十賀試楽」が翌文永五年(1268)の閏ではない正月の二十四日に行われており、『五代帝王物語』の記述は史実通りです。

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一院はことし<文永五年>四十九にならせおはします。五十の御賀ひきあげて今年あるべしとて、去年より内裏にて楽所始ありて連日に伎楽あり。舞人或は束帯或は衣冠也。去年十月十六日春日社へ御幸有て、宸筆の金泥の唯識論御供養有べきにて有しほどに、前大相国<公相公>俄かに薨ぜらる。所労わづかに両三日也。是によりて御賀の定も延たりしが、十一月十六日南都へ御幸ありて、御願を果させ給ふ。御導師は菩提山大僧正<尊信>なり。
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後嵯峨院は今年(文永五年)四十九歳になられる。五十の御賀を一年早く今年行うことになって、去年より内裏にて楽所始があり、連日、伎楽がある。舞人はある者は束帯、ある者は衣冠である。去年十月十六日、春日社への御幸が予定されており、後嵯峨院後宸筆の金泥の唯識論御供養をされることになっていたが、前太政大臣・西園寺公相が僅かに三日ほど病に伏せられたのち、俄かに亡くなられたため、御賀の行事も延期となったが、一ヵ月後に南都御幸があって、後嵯峨院は御願を果たされた。御導師は菩提山大僧正尊信である。

とのことで、西園寺公相はちょっとだけ病んで急死してしまったとありますので、この記述からも『増鏡』の公相死去の場面が創作であることが伺われます。

「巻七 北野の雪」(その12)─「久我大納言雅忠」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d3b8d098bb9a94b965e39d20708597

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さて十二月には富小路殿にて、内々の御賀の舞、院御覧ありて、人々参りこみてゆゆしき見物也。舞人布衣也。五年正月廿四日、麗はしく院の舞御覧の儀あり。舞人、左には中将実冬朝臣、冬輔朝臣、家長朝臣、少将忠季朝臣、公重、基俊。右には中将経良朝臣、実成朝臣、少将隆良朝臣、実綱等也。童舞には胡飲酒に関白御息<正応関白是也>、陵王に四条大納言隆親卿息<興福寺隆遍法印是也>。
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そして十二月には新院(後深草院)御所の富小路殿で「内々の御賀の舞」があり、「院」が御覧になり、人々が大勢集まって大変な見物だったとあります。
この「院」は、そのすぐ後の「五年正月廿四日、麗はしく院の舞御覧の儀あり」という記述から、新院ではなく「一院」、後嵯峨院であることが分かります。
この閏ではない正月二十四日の「院の舞御覧の儀」に登場する舞人は、

左:実冬・冬輔・家長・忠季・公重・基俊
右:経良・「実成」・隆良・「実綱」
童舞:胡飲酒、関白御息<正応関白是也>、陵王、四条大納言隆親卿息<興福寺隆遍法印是也>

とありますので、『増鏡』が閏正月二十四日に行われたとする「後嵯峨院五十賀試楽」の場面と人名及び順番が共通です。
もっとも『増鏡』では「実成」ではなく「実守」ですが、これは両方とも不正確で、人名比定をすると「実盛」が正しいようです。
また、『増鏡』では「実綱」ではなく「実継」ですが、これは『増鏡』が正しいようです。
更に『増鏡』では「陵王の童も、四条大納言の子」とあるのみです。

「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171

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もとは楽行事に花山院中納言長雅卿、西園寺中納言実兼卿、胡飲酒に前大相国息<宰相中将実俊是也>と聞し程に、相国薨じて後あらたまりて、楽行事には左衛門督通頼卿、胡飲酒に関白の御息参り給べきになりぬ。楽人、殿上人地下の楽人相交る。舞人楽人みな布衣也。舞人装束、面々に花ををるなど申は猶世のつねの花にあらずことに見ゆ。院の御所冷泉殿にて此儀あり。南庭に座を敷て舞人楽人の座とす。新院東二条院を始まいらせて、御方々あつまらせ給。中務卿宮、僧宮たちも参りあはせ給へり。公卿関白を始て四十三人座につく。座狭によつて透渡殿東西の中門廊迄も着せり。今日胡飲酒の童はまいられず。陵王童<隆遍>ばかり参られけり。何も其曲を施たる有さま、心も詞も及ばず。
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もともと「楽行事」には花山院長雅・西園寺実兼が任ぜられ、胡飲酒の舞は前太政大臣公相息の西園寺実俊が舞うと聞いていたが、公相公の死去を受けて「楽行事」には中院通頼がなり、胡飲酒は関白・近衛基平公の御子息が舞われることとなった。【中略】後嵯峨院の御祖、冷泉万里小路殿でこの儀式は行なわれた。

ということで、『増鏡』には「楽行事」についての言及はありませんが、参集した公卿の中には花山院長雅はいても西園寺実兼はおらず、舞人に西園寺実俊(九歳)もいないので、二人が服喪により欠席したことが伺われます。
新院(後深草院)・東二条院・中務卿宗尊親王、後嵯峨院皇子の法親王たちが参集し、大変な盛儀であったらしいことは『増鏡』の描写と同じです。

「巻八 あすか川」(その1)─後嵯峨院五十賀試楽
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/516dab82b9ece210bbbd258cf04d5a02
「巻八 あすか川」(その2)─「二条大納言経輔」の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4831a8acf5a6dffb71133e2a9281e1c

さて、最後の方、「今日胡飲酒の童はまいられず。陵王童<隆遍>ばかり参られけり」という文章は非常に奇妙です。
「今日」とありますが、この文章は明らかに正月二十四日の「後嵯峨院五十賀試楽」についての記述なので、直前の「胡飲酒に関白の御息参り給べきになりぬ」との関係が分かりません。
この点、『増鏡』においては「後嵯峨院五十賀試楽」に関白息は登場せず、「陵王の童も、四条の大納言の子」とあるだけなので、『増鏡』との整合性は取れています。
しかし、「今日」という表現は、別の日には胡飲酒を「関白の御息」が舞ったが、「今日」は参らず、四条隆親息の「陵王童<隆遍>」だけが参ったということでなければ意味が通じないはずです。
なお、『増鏡』では「後嵯峨院五十賀試楽」の後、二月十七日に行われたとされる「富小路殿舞御覧」において、「胡飲酒の舞は実俊の中将とかねては聞えしを、父大臣の事にとどまりにしかば、近衛の前の関白殿の御子三位の中将と聞ゆる、未だ童にて舞ひ給ふ」とあります。

「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

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