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「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」

2018-01-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月28日(日)13時07分16秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p115以下)

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 時なりて舞人ども参る。実冬の中将、唐織物の桜の狩衣、紫の濃き薄きにて梅を織れり。赤地の錦の表着、紅の匂ひの三つ衣、同じ単、しじらの薄色の指貫、人よりは少しねびたるしも、あな清げと見えたり。
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「実冬の中将」は滋野井実冬(1243-1303)で、滋野井家は閑院流三条家の庶流ですね。
以下、衣装の説明は省略します。

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 大炊御門の中将冬輔と言ひしにや、装束さきのにかはらず。狩衣はひら織物なり。花山院の中将家長<右大将の御子>魚綾の山吹の狩衣、柳桜を縫物にしたり。紅の打衣をかかやくばかりだみかへして、萌黄の匂ひの三つ衣、紅の三重の単、浮織物の紫の指貫に、桜を縫物にしたり。珍しくうつくしく見ゆ。
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大炊御門冬輔(1248-?)は前内大臣・冬忠(1218-68)の次男です。
花山院家長(1253-74)は後に太政大臣となる通雅(1232-76)の長男ですが、五年後に二十一歳で早世しています。

花山院家長(1253-74)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E9%95%B7

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 花山院の少将忠季<師継の御子なり>、桜の結び狩衣、白き糸にて水をひまなく結びたる上に、梅柳をそれも結びてつけたる、なまめかしく艶なり。赤地の錦の表着、金の文を置く。紅の二つ衣、同じ単、紫の指貫、是も柳桜を縫物に色々の糸にてしたり。中宮の権亮の少将公重<実藤の大納言の子>、唐織物の桜萌黄の狩衣、紅の打衣、紫の匂ひの三つ衣、紅の単、指貫、例の紫に桜を白く縫ひたり。
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花山院忠季は後に内大臣となる師継(1222-81)の息子ですが、『尊卑分脈』に「左中将、早世」とあります。
「中宮の権亮の少将公重」は室町公重(1256-85)で、父は西園寺公経の晩年の子、実藤(1227-98)です。

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 堀川の少将基俊、唐織物、裏山吹、三重の狩衣、柳だすきを青く織れる中に、桜を色々に織れり。萌黄の打衣、桜をだみつけにして、輪ちがへを細く金の文にして、色々の玉をつく。匂ひつつじの三つ衣、紅の三重の単、こも箔散らす。
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堀川基俊(1261-1319)は後に太政大臣となる堀川基具(1232-97)の息子です。
この年、僅か八歳ですね。
基俊は正応二年(1289)、第八代将軍となった久明親王の随行者筆頭として鎌倉に下向しますが、『増鏡』の「巻十二 浦千鳥」には、「また一条摂政殿の姫君も、当代、堀河の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に十六にて参り給ひて、初めつ方は基俊の大納言うとからぬ御中にておはせしかば、彼の大納言東下りの後、院に参り給ひし程に、殊の外にめでたくて、内侍のかみになり給へる、昔おぼえておもしろし」という些か謎めいた記述があります。
この部分については後で詳細に検討します。

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 二条の中将経良<良教の大納言の御子也>、これも唐織物の桜萌黄、紅の衣、同じ単なり。皇后宮権亮中将実守、これも同じ色々、樺桜の三つ衣、紅梅の三重の単、右馬頭隆良<隆親の子にや>、緑苔の赤色の狩衣、玉のくくりを入れ、青き魚綾の表着、紅梅の三つ衣、同じ二重の単、うす色の指貫、少将実継、松がさねの狩衣、紅の打衣、紫の二つ衣、是も色々の縫物、置物など、いとこまかになまめかしくしなしたり。
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二条経良(1250-90)は先に「二条大納言良教」として登場している近衛家諸流、粟田口良教(1224-87)の子です。
「皇后宮権亮中将実守」は閑院流三条家の三条公泰(1231-?)の子の三条実盛(?-1304)です。
この人は生年がはっきりしませんが、建長五年(1253)に叙爵して当初は順調に出世したものの、間もなく昇進がストップし、弘安九年(1296)にやっと参議、そして正四位下から従三位になった程度ですからそれほどの経歴ではありません。
ただ、正応三年(1290)の浅原事件に際して、三条家に伝わる鯰尾という刀を浅原為頼に渡したのではないかという嫌疑で逮捕されたことで有名な人ですね。

浅原事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

「右馬頭隆良」は四条隆親(1203-79)の末子・隆良(?-1296)で、康元元年(1256)叙爵ですが、公卿になれたのは正応元年(1288)とずいぶん遅く、同五年(1292)に参議、永仁三年(1295)に権中納言となっていますが同年中に辞し、翌永仁四年に死去しています。
この人自身はそれほどの経歴の持ち主ではありませんが、鷲尾家の祖であって、子孫はそれなりに繁栄します。
「少将実継」について、井上氏は「三条公親男か。『尊卑分脈』に「右中将 正四位下」とある。早世したのであろう」(p121)と書かれています。
三条公親(1222-92)は公泰の兄なので、実盛と実継は従兄弟の関係になります。

三条公親(1222-92)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E8%A6%AA

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 陵王の童も、四条の大納言の子、装束常のままなれど、紫の緑苔の半尻、金の文、赤地の錦の狩衣、青き魚綾の袴、笏木のみなゑり骨、紅の紙にはりて持ちたる用意けしき、いみじくもてつけて、めでたく見え侍りけり。笛茂通・隆康、笙公秋・宗実、篳篥兼行、太鼓教藤、鞨鼓あきなり、三の鼓のりより、左、万歳楽、右、地久、陵王、輪台、青海波、太平楽、入綾、実冬いみじく舞ひすまされたり。右、落蹲、左、春鴬囀、右、古鳥蘇、後参、賀殿の入綾も、実冬舞ひ給ひしにや。
 暮れかかる程、何のあやめも見えずなりにき。御方々、宮達あかれ給ひぬ。
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井上氏は「四条の大納言の子」について、「当時、四条家では前大納言が隆親。なお前中納言隆行、権中納言隆顕らもおり、隆行とすると、その子の一人、隆久辺かとも思われるが、『深心院関白記』によると、陵王を舞ったのは隆親の子という。ただし隆親はこの年六十七歳だから、童舞をするような子を持っていたか、疑問が残る」(p121)とされています。
井上氏は何故か『五代帝王物語』を参照されていませんが、これは同書に「陵王に四条大納言隆親卿息<興福寺隆遍法印是也>」とある隆遍ですね。
この点については後述します。
楽人については省略します。

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