学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0172 後醍醐と護良の還京場面の比較(その2)

2024-09-17 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第172回配信です。


兵藤裕己校注『太平記(二)』p179以下
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6 還幸の御事

 東寺に一日御逗留あつて、六月六日、二条内裏へ還幸なる。その日、臨時の宣下あつて、足利治部大輔〔じぶのたいふ〕をば治部卿に叙す。舎弟直義左馬頭に任ず。
 千種頭中将忠顕朝臣は、帯剣の役にて、鳳輦の前に供奉せられたりけるが、なほ非常を慎む最中なればとて、刀帯〔たちはき〕の兵五百人、二行に歩ませられたり。高氏、直義二人は、後乗に順〔したが〕つて、百官の後〔しり〕へに打たれけるが、衛府の官なればとて、騎馬の兵五千余騎、甲冑を帯して打たせらる。
 その次に、宇都宮五百騎にて打つ。佐々木判官七百余騎、土居、得能二千余騎にて打つ。この外、正成、長年、円心、結城、塩冶以下〔いげ〕、国々の大名は、五百騎、三百騎、旗の次々に一勢一勢引き分けて、輦輅〔れんろ〕を中にして、閑〔しず〕かに小路を打つ。
 凡〔およ〕そ路次〔ろし〕の行粧、行列の儀式、前々〔さきさき〕の臨幸に事替はつて、百司〔はくし〕の守衛〔しゅえ〕厳重なりしかば、見物の貴賎岐〔ちまた〕に満ちて、ただ帝徳を称する音〔こえ〕、洋々として耳に満てり。
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(1)五月二十三日、船上山出発時(p173)

  塩冶判官高貞 千余騎(前陣)
  朝山太郎   五百騎(後陣)
  金持大和守・伯耆守長年 不明

(2)六月二日、兵庫出発時(p178)

  楠木正成   七千余騎(前陣)

(3)六月六日 二条内裏還幸時(p179)

  千種忠顕    五百余騎
  足利高氏・直義 五千余騎
  宇都宮     五百騎
  佐々木判官   七百余騎
  土井・得能   二千余騎
  「正成、長年、円心、結城、塩冶以下、国々の大名」 「五百騎、三百騎、旗の次々に一勢一勢」

  合計は不明(九千五百騎以上)

これに対し、六月十三日に入京した護良を中心とする軍勢の行列は、

兵藤校注『太平記(二)』、p217以下
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 その行列の行装、天下の壮観を尽くせり。先づ一番には赤松入道円心千余騎にて前陣を仕る。二番には、殿法印良忠七百余騎にて打たる。三番には、四条少将隆資五百余騎、四番には、中院中将定平八百余騎にて打たる。その次に、花やかに冑〔よろ〕うたる兵五百人を勝〔すぐ〕つて、帯刀〔たてわき〕にて二行に歩ませらる。
 その次に、宮は、赤地の金襴の鎧直垂に、火威〔ひおどし〕の鎧の裾金物に、獅子の牡丹の陰に戯れて前後左右に追ひ合ひたるを、草摺長〔くさずりなが〕に召され、兵庫鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘懸けたるを、(太刀懸かけの)半ばに結うて下げ、白篦〔しらの〕に節陰ばかり少し染めて、鵠〔くぐい〕の羽を以て矧〔は〕ぎたる征矢〔そや〕の二十六差したるを、筈高〔はずだか〕に負ひなし、二所藤〔ふたところどう〕の弓の銀のつく打つたるを十文字に拳〔にぎ〕つて、白瓦毛〔しろかわらげ〕なる馬の尾頭〔おがしら〕あくまで太くして逞しきに、沃懸地〔いかけじ〕の鞍を置いて、厚総〔あつぶさ〕の鞦〔しりがい〕のただ今染め出だしたるを芝打長〔しばうちなが〕に懸けなし、侍十二人に諸口〔もろぐち〕を押させ、千鳥足を踏ませて、小路を狭〔せば〕しと歩ませける。
 後乗には、千種頭中将忠顕朝臣千余騎にて供奉せらる。なほも御用心の最中なれば、御心安き兵を以て非常を誡めらるべしとて、国々の兵をば、ひた物具にて三千余騎、閑かに小路を打たせらる。その後陣には湯浅、山本、伊達三郎、加藤太、畿内、近国の勢、打ちこみに二十万七千余騎にて、一日支へてぞ打つたりける。
 時移り事去つて、万〔よろ〕づ昔に替はる世なれども、天台座主、忽ちに将軍の宣旨を給はつて、甲冑を帯し、随兵を召し具して御入洛ありし有様は、珍らしかりし壮観なり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04cda2bd6423c12bba2963c1f71960e1

整理すると、

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 赤松円心 千余騎
 殿法印良忠 七百余騎
 四条少将隆資 五百余騎
 中院中将定平 八百余騎
 「花やかに冑うたる兵」 五百人
 護良親王 侍十二人
 千種頭中将忠顕朝臣 千余騎
 「国々の兵をば、ひた物具にて」 三千余騎
 「湯浅、山本、伊達三郎、加藤太、畿内、近国の勢」 二十万七千余騎
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となる。
あくまで「六月六日、信貴を御立ちあつて、八幡に七日御逗留あつて、同じき十三日、御入洛」あったときの人数なので、赤松円心、千種忠顕の軍勢も実際にいたのかもしれない。
しかし、この中で、本当に護良の配下といえるのはどれだけなのか。
確実なのは殿法印良忠七百余騎くらいではないか。
「なほも御用心の最中なれば、御心安き兵を以て非常を誡めらるべしとて、国々の兵をば、ひた物具にて三千余騎」を加えて三千七百余騎か。
(数字にはもちろん全体的に大幅な誇張がある)

森茂暁『皇子たちの南北朝』(中公新書、1988)p58以下
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 良忠の手の者が、六波羅攻めの際、京中の土蔵を破ったという話については、『光明寺残篇』に収める勅制軍法中の「仁政を先んずべき事」で、入洛する後醍醐軍の軽挙妄動を防ぐため、ことさら「衆人を煩〔わずらわ〕さず、偏〔ひとえ〕に仁慈を先にし、更に人を侵し奪ふこと無かれ」などと諭していることからみて、良忠の手兵のような者たちが、京中の土蔵を襲うことなど、充分ありえたであろう。右の『太平記』の話は、六波羅攻めの混乱中に起きた一事件をもとにして、護良と尊氏の対立の発端を説明しているのである。
 ちなみに、良忠については『尊卑分脈』に関白二条良実の孫としてみえ、明確に「大塔宮参候の仁なり」と注記されている。また横川長吏公尋僧正が良忠に付法したこと、良忠が「大力勇健の猛将」であったこと、元弘の変のとき「謀叛の宿意を企て」たことが後日露顕し、六波羅に監禁されたが、牢を破って脱走したこと、などもしるされている。尊貴の出で、かつ勇猛な点では護良とすこぶる共通している。良忠も山門入りの経験があるから、護良と良忠のつながりは護良の天台座主時代に形成されたと考えられる。良忠が護良の有力な近侍者の一人だったことはいうまでもない。
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護良の勢力は過大評価されているのではないか。
征夷大将軍になることと武家政権としての幕府を開くことは全く別問題。
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