学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その2)

2023-01-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

杉山次子氏は、「御末」問題の最後に、

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【前略】慈光寺本の用例も(三)と考えるならば「君ノ御末ノ様見奉ルニ」は「土御門院の御晩年の御有様を拝するに」の意味となって、同院の御子孫の繁栄を天照大神正八幡が嘉せられたと、逆説にとらず、院その人の運命の末、即ち末路を両神がいたまれたことであろうと素直にとることが出来る。流布本も「子孫」に言及していないし「此院の御末かたじけなく」という兵乱記の記事にひきずられない方がよいであろう。「御末」を一義的に子孫ととって南北朝以降の作とするのは如何であろうか。
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と書かれていますが(p73)、仁治三年(1242)、四条天皇の急死を受けて土御門院皇子の後嵯峨天皇が践祚して以降、土御門院の「御子孫の繁栄」は続いているので、益田宗説に立ったとしても、何故に「「御末」を一義的に子孫ととって南北朝以降の作とする」となるのか、ちょっと分かりにくいですね。
ま、この点は後で益田説を確認したいと思います。
さて、この後、杉山氏は次のように書かれています。

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 慈光寺本の作者や伝来については全く知られず、彰考館搬入の際の
  右承久記古本一冊 元禄己巳冬 安藤新助京師新写本
の奥書が唯一の手懸りなので、成立論は内部徴証による外ない。冨倉氏は、①三上皇の御諡号がない。②土御門院の土佐から阿波への御移徙の記事がない。③編年的に承久三年十二月一日までのことを述べているの三点から貞応元年から同二年五月までの間と推定される。村上氏は、文中の尊長法師の被斬と、駿河大夫惟信の流刑に着目して惟信捕縛が乱後九年目にあたるので、成立も乱後九年以降としなければならないが、冨倉説を生かして貞応元年から同二年を原慈光寺本成立期とし、現存本は、
  其ノ後尊長法師ハ行方シラス
以下の記事を「当時のだれかの日記を参考にして後人が原慈光寺本承久記に書き加えたもの」とされる。この両説にも再考の余地があるように思われる。【後略】
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「成立論は内部徴証による外ない」のは一応はその通りですが、この手法には根本的・原理的な限界があることには自覚的でなければならないと私は考えます。

田渕句美子氏の方法論的限界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e561cd5f2b6ad2e0750379f3cfb62e71
『とはずがたり』の政治的意味(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a404101f3b0b8b35b6769194a971230
慈光寺本『承久記』の成立時期について(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74a4edd2816653420041992b22d72a43

ついで、「(二)成立年代の推定」の冒頭も確認しておきます。

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 上限について後人の加筆説をとれば長厳入滅の乱後七年、とらなければ「惟信捕縛」の乱後九年(1230)は動かないであろう。
 下限については尚文中に材料を求めると、下巻も終りに近づき、乱後の幕府の処分を語る所に、
  中ニモ勝テ哀ナリケルハ、甲斐宰相中将子息ノ侍従ト山城守勢多賀児ニテソ留タル
という記事が現われる。加筆といわれる部分より前で、本文と公認されている部分に含まれている。勢多賀丸については、吾妻鏡も載せ、六代御前と比較される承久哀話の一つで文書史料でも実録であることがわかっているが、侍従に関することは、承久兵乱を扱う記述ものに全く登場していない。私見では、前田本、流布本のもととなった原承久記が成立する時、多く吾妻鏡の記事をとり入れ、記事が慈光寺本と吾妻鏡と抵触する場合は吾妻鏡を採るという原則を持っているので、平知盛の孫である侍従を救った事実をはばかって記事を省いた吾妻鏡が、そのまま引継がれて現行諸本に登場しないのであろう。(私は現行諸本は慈光寺本に吾妻鏡や増鏡の記事を増補して成立した原承久記から派生していると考えるので、その成立を南北朝以降と見たい。東北史学会四十四年度大会口頭発表(承久記の史料性について)─)【後略】
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うーむ。
「前田本、流布本のもととなった原承久記が成立する時、多く吾妻鏡の記事をとり入れ、記事が慈光寺本と吾妻鏡と抵触する場合は吾妻鏡を採るという原則を持っている」、「私は現行諸本は慈光寺本に吾妻鏡や増鏡の記事を増補して成立した原承久記から派生していると考えるので、その成立を南北朝以降と見たい」とありますが、この理解は必ずしも国文学者に一般的なものではなく、かなり特異な見方ですね。
例えば『新訂承久記』(松林靖明校注、現代思潮社、1982)の「承久記解説」には、

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 最後に、流布本の成立年次については、あまり研究が進んでおらず、後藤丹治氏が後鳥羽院、土御門院の諡号から仁治三年(一二四二)七月以降、また『神明鏡』に『承久記』が引用されているところから鎌倉時代後期の作品としたのがはじめで、それを冨倉徳次郎氏が、当然使用すべきところで順徳院という諡号を用いていないので、順徳と諡〔おくりな〕された建長元年(一二四九)七月二十日以前の成立であろうと、その幅を狭めたのが、現在通説となっている。
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とあります。(p38)
私は松林氏の研究史整理を、1982年段階のものとしては非常に優れていると考えていますが、仮にこの「通説」が正しければ、杉山説に従って慈光寺本を1230年代成立と考えたとしても、流布本も1240年代ですから、さほど差はありません。
先に私は、「「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その1)」において、

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仮に慈光寺本だけが1230年代に成立していて、他本はそれより遥かに遅れ、承久の乱に関する諸人の記憶が薄れた頃に成立していたならば「古態」に意味があるかもしれませんが、そうした主張をしている人はいないようで、多くの国文学者は、せいぜいドングリの背比べ程度の年代差を想定しているように思われます。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dddf5d1ff155e2007a1f34eb2458d38f

などと書いてしまって、反論のコメントをもらいましたが、松林氏の言われる「通説」に従えば、少なくとも慈光寺本と流布本はドングリの背比べとなりますね。

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4 コメント

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慈光寺本は難しい (愛読者)
2023-01-07 09:43:26
「『成立論は内部徴証による外ない』のは一応はその通りですが、この手法には根本的・原理的な限界があることには自覚的でなければならないと私は考えます」

*私も前にそう思っていました。ただ図書館にお願いして慈光寺本の影印を取り寄せて見たら、内部徴証にしか頼れないこともよくわかりました。よろしければいちど影印本をご覧になってください。
「根本的・原理的な限界」は、どの先生方も言われるまでもなく「自覚」されていると思います。たとえ論文で断定的な書き方をされていても……
返信する
「内部徴証」の落とし穴 (鈴木小太郎)
2023-01-07 13:13:41
いえ、私はそこまでレベルの高い話をしている訳ではありません。
一般に慈光寺本の方が他本より古そうな印象を与えるのは、後鳥羽・土御門・順徳の諡号を使っていないことが一番の原因ではないかと思われます。
流布本の成立時期に関し、松林靖明氏の言われる「通説」も、後鳥羽・土御門の諡号を使用し、順徳の諡号は使用しないから1240年代だ、という発想です。
しかし、諡号の点を除き、流布本の内容自体を見ると、慈光寺本と同じく1230年代と考えても説明できない部分はありません。
とすると、仮に「原流布本」が1230年代に成立していて、それを1240年代に書写した人が、特に改変の意図もなく、単純に諡号を用いた方が分かりやすいと思って後鳥羽・土御門だけ諡号に変えたらどうなるか。
「通説」の立場からは、これだけで流布本は1240年代成立となってしまいますが、これが単純な「内部徴証」手法の限界(の一例)ですね。
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杉山次子先生 (愛読者)
2023-01-07 22:47:01
鈴木様

そういえば、Twitterで「国会図書館で「杉山次子」を検索すると、やたらと妊娠やお産関係の本が出て来るけど、さすがに別の人だろうな」と書かれておりましたが、杉山次子先生はラマーズ式分娩の研究もされていたようです。
以前私も別人かなと思っていたのですが、ある方から豊田武先生の追悼文集(私は実物を確認できておりません)にその旨が書かれていることを教わりました。ご参考までに。
返信する
てっきり同姓同名かと。 (鈴木小太郎)
2023-01-08 10:52:42
そうですか。
同一人物とは驚きました。
杉山氏の論文は1970年代前半に集中しているので、その後は国文学研究からは少し距離を置いてしまったようですね。
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