20代の半ばに触れた恩師の言葉を本気で疑い、検証し、あーっという間だに40年が過ぎました。宗教心理学に基づく心理療法理論、比較宗教学、文化人類学、歴史聖書学、心理学、哲学、その集大成としての魂論と三位一体論と聖霊論、それらの検証を経て得たオックスフォード大学の宗教学学会の結論が下記の定義でした。結論を得るまでには、アウグスチヌス、トマスアクイナスを含む2,000年の人々の文献が含まれています。魂が存在するかどうかは世界的な学会と科学者に一任して、宗教心理学の立場はその魂を信じて見えてくるもの、逆に信じて、見えなくなるものを研究してきました。
全ては下記の定義から始まります。20代の若い学徒は、この定義を疑い検証しつつ、学んで下さい。もう人生が短いと思う方は、この<信じてみえてくるもの>だけを思索すると無駄が無くなります。魂の存在を検証するのは一生かかりますが、魂の存在を信じて、見えてくるもの、見えなくなるものを学ぶと短時間で森羅万象の背後にある真理が必ず見えてきます。この思索方法は人生を短時間で深めてくれます。
人間とは<魂と心と身体をもつもの>:その魂とは<病む事もなく、死ぬ事もない、永遠に生きるもの、普遍的な知恵をもつもの、自由意志もあり記憶力もある、臨終の時、初めて身体から離れていく知的生命体>を言います。
:<NPD3:慈眼論:34-3>:
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全ては下記の定義から始まります。20代の若い学徒は、この定義を疑い検証しつつ、学んで下さい。もう人生が短いと思う方は、この<信じてみえてくるもの>だけを思索すると無駄が無くなります。魂の存在を検証するのは一生かかりますが、魂の存在を信じて、見えてくるもの、見えなくなるものを学ぶと短時間で森羅万象の背後にある真理が必ず見えてきます。この思索方法は人生を短時間で深めてくれます。
人間とは<魂と心と身体をもつもの>:その魂とは<病む事もなく、死ぬ事もない、永遠に生きるもの、普遍的な知恵をもつもの、自由意志もあり記憶力もある、臨終の時、初めて身体から離れていく知的生命体>を言います。
:<NPD3:慈眼論:34-3>:
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魂を思索する、それは、生き甲斐を思索する事に繋がります。
五感や体感を意識し、日々、身の回りに起きる出来事、見えてくるもの、聞こえてくるものをどう解釈して生活するか。前向きな、五感豊かな解釈と言語表現は、いきいきと生きていくための知恵ですね。息を引き取るまで精進です。
ようやく「魂の存在」だけは、素直に信じることができるようになりました。
そうなれた時から、自分の心が安定しだしたのをはっきりと知覚しています。
魂は、ずっとわたしに語りかけていました。
でも、わたしは耳を傾けなかった、心を開けなかった。
そしてたくさんの試練と苦しみが与えられました。
でも、今、素直になって自分を振り返ると、わたしにはそういう魂との葛藤が必要だったのだろうと思っています。
魂の大元は、わたしを包み込むような存在、大いなる親のような存在。わたしが属している存在だと・・・
わたしは認識しています。
子は親と葛藤しなければ、成長することはできません。
何事も苦しみと研鑽がなければ本当に自分の血と肉と知には、なり得ないのでしょう。
魂(知的生命体)がわたしに望んだのは、魂がわたしの「血と肉と知」になるものだということをわたしに認識させる事でした。
でも、もともと魂とヒトとの関係はそういうモノなのでしょうね。
だって、親の血と肉と知は、子供に受け継がれるものだからです。
たぶん、、たくさんの人々、、いえ、全ての人々の内に魂はそうやって存在しているのだろうなと思います。
親が子を愛するのは、本当はそれが一番自然な形ですよね。
でも、今、その形が崩れてきているのは・・・
これは自然な流れ、、なのでしょうか?
それとも「知覚」が必要なのでしょうか?
わたしに起こったように。
わたしにはよくわかりません。。
二つのコメントから改めて人の魂についての思索が始まりました。