![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/0e/0b8b4db4866ae1b95b3b37eb7214a985.jpg)
250年以上も幕府に見つからないようにキリスト教を信仰していた、潜伏キリシタンの「祈りの岩」だ。
この大きな岩の下に、年に一度、復活祭前の「悲しみ節」の夜に潜伏キリシタンが集まって見張りを
立て、オラショを練習した。オラショとは「祈り」を意味するポルトガル語で、日本語に訳さないで伝承
してきた。「主の祈り」「アベ・マリヤ」「ケレド」「こんちりさんのりやく」「天地始之事」「ルソンのオラショ」
などがあるらしい。でも、日本語に訳した「主の祈り」をテープで聞いた。どう考えればいい……?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/df/188a5ca1d8297bc04bab192fe31f13d1.jpg)
潜伏キリシタンの遺物(聖遺骨入れ)
マーチン・スコセッシが映画化した遠藤周作の『沈黙』の舞台が長崎のこのあたり。市街地から車で
40分~50分かかる。昭和40年ごろまでは、道が悪くて2時間かかったらしい。江戸時代には舟しか
移動手段がないから、潜伏キリシタンを取り締まる役人が舟で沖に現われると、陸に上がってくる前
にキリシタンである証拠品をさっと隠した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/36/2d1a71f4144e72f21a46e37cc7ca0426.jpg)
海に張り出した崖を回ってくる
茅葺き屋根の家に住んでいたので、竹の筒に聖なる品を入れて屋根にズボッと差し込めばバレない。
そのまんま家で煮炊きするから竹の筒が煤けて黒くなる。こんなふうに黒くなる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/48/ad9c69b900836cf9fbbb5bd5a818cacc.jpg)
潜伏キリシタンの命を救った竹筒
潜伏している間にイメージが変容して、マリア像もだんだん天女っぽくなった。教えのほうもきっと、
少しずつ変化したのではないだろうか。『沈黙』にも書いてあるように。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/5b/2c5a905c6dbaf5febee4992563d40353.jpg)
天女みたいな聖母の像
明治になってカトリックの教会ができると、潜伏キリシタンの中には教会に通う人たちも出てきた。
しかし教会に通わないで、自分たちの教えを守る人たちも多かった。教会から「隠れキリシタン」と
呼ばれた彼らは、自分たちを「昔キリシタン」「古キリシタン」と呼んだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/3f/0a7bffdba59eca04967bbb1039e2acaf.jpg)
今では海でサーフィンする人も
祈りの岩のある山の奥には、「昔キリシタン」「古キリシタン」の神社があって、枯松神社という。
江戸の初めの日本人伝道師バスチャン(セバスチャンが訛った)の、さらに師であるサン・ジワン
を祀るキリシタン神社だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/89/478df34b7d19022edd263b3b01a9299e.jpg)
サン・ジワン枯松神社ともいう
拝殿の中にサン・ジワンの祠がある。というより、祠があるところに古キリシタンが社を建てたのだ。
どんな祠かというと、こんな祠だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/5c/6afee3c4a18e2024dcb3a28eb92a6698.jpg)
サン・ジワンは伝説の人
「隠れキリシタン」と呼ばれた「昔キリシタン」「古キリシタン」は明治以後も独自の共同体を維持して、
自分たちの教えや儀式を守った。「組」あるいは「帳」と呼ばれる小組織に分かれ、それぞれに日繰り
やオラショを伝承する最高指導者の「帳方」、洗礼を授ける「水方」、連絡係の「触役」がいて、組織を
まとめてきた。葬儀なども自分たちで執り行ってきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/0d/f816d4df98925d1a6bf3bb29a7272f45.jpg)
高度成長期に変化の波が訪れた
若い人たちは仕事を求めて都会に出ていく。残った「昔キリシタン」「古キリシタン」は高齢化して、
だんだん人数が減っていく。「組」や「帳」が維持できなくなり、儀式も執り行えなくなる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/5a/5437193dfed1d05b8ed2a4af3e968727.jpg)
昭和40年代から戒名が
代々、洗礼名で葬られてきた「昔キリシタン」「古キリシタン」が独自に葬儀を維持できなくなってきて、
昭和40年代ぐらいから仏式を受け入れ始め、戒名がつけられるように。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/fb/5a361f751457f2363673f4d123d8490b.jpg)
パウロ以外みんな戒名
どうしてか、また墓地を歩き回っている。散歩をしていると、いつのまにか墓地に足を運んでしまう。
墓地は情報の宝箱だから、ということにしておこう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/60/1740bd83764f1390cff62ef5779872b8.jpg)
こちらは洗礼名で頑張る
ドメーゴス、シテーナ、カテリーナ、法妙梅枝来雲信女だけ戒名で、イサべり、サントメ―、マリヤ、
ルシーナ、カラシナ、ドメイゴスは洗礼名だ。よく見ると没年は昭和二十年代がほとんど。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/e0/1842ad9a268dda2a7a3828ef751e10d7.jpg)
教会よりも仏式のほうが寛容?
多くの「昔キリシタン」「古キリシタン」が仏式で葬られることを選んだのは、「隠れキリシタン」という
呼び方をしないで、教義に寛容なのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/fb/e32c6fda5b91f702a9b378513b6eb59a.jpg)
近くのカトリック黒崎教会
雑誌の取材にきた町で、空いた時間に神社や墓地をまわったけれど、ページに反映されることは
まったくなかった。
関連記事: 長崎
この大きな岩の下に、年に一度、復活祭前の「悲しみ節」の夜に潜伏キリシタンが集まって見張りを
立て、オラショを練習した。オラショとは「祈り」を意味するポルトガル語で、日本語に訳さないで伝承
してきた。「主の祈り」「アベ・マリヤ」「ケレド」「こんちりさんのりやく」「天地始之事」「ルソンのオラショ」
などがあるらしい。でも、日本語に訳した「主の祈り」をテープで聞いた。どう考えればいい……?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/df/188a5ca1d8297bc04bab192fe31f13d1.jpg)
潜伏キリシタンの遺物(聖遺骨入れ)
マーチン・スコセッシが映画化した遠藤周作の『沈黙』の舞台が長崎のこのあたり。市街地から車で
40分~50分かかる。昭和40年ごろまでは、道が悪くて2時間かかったらしい。江戸時代には舟しか
移動手段がないから、潜伏キリシタンを取り締まる役人が舟で沖に現われると、陸に上がってくる前
にキリシタンである証拠品をさっと隠した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/36/2d1a71f4144e72f21a46e37cc7ca0426.jpg)
海に張り出した崖を回ってくる
茅葺き屋根の家に住んでいたので、竹の筒に聖なる品を入れて屋根にズボッと差し込めばバレない。
そのまんま家で煮炊きするから竹の筒が煤けて黒くなる。こんなふうに黒くなる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/48/ad9c69b900836cf9fbbb5bd5a818cacc.jpg)
潜伏キリシタンの命を救った竹筒
潜伏している間にイメージが変容して、マリア像もだんだん天女っぽくなった。教えのほうもきっと、
少しずつ変化したのではないだろうか。『沈黙』にも書いてあるように。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/5b/2c5a905c6dbaf5febee4992563d40353.jpg)
天女みたいな聖母の像
明治になってカトリックの教会ができると、潜伏キリシタンの中には教会に通う人たちも出てきた。
しかし教会に通わないで、自分たちの教えを守る人たちも多かった。教会から「隠れキリシタン」と
呼ばれた彼らは、自分たちを「昔キリシタン」「古キリシタン」と呼んだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/3f/0a7bffdba59eca04967bbb1039e2acaf.jpg)
今では海でサーフィンする人も
祈りの岩のある山の奥には、「昔キリシタン」「古キリシタン」の神社があって、枯松神社という。
江戸の初めの日本人伝道師バスチャン(セバスチャンが訛った)の、さらに師であるサン・ジワン
を祀るキリシタン神社だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/89/478df34b7d19022edd263b3b01a9299e.jpg)
サン・ジワン枯松神社ともいう
拝殿の中にサン・ジワンの祠がある。というより、祠があるところに古キリシタンが社を建てたのだ。
どんな祠かというと、こんな祠だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/5c/6afee3c4a18e2024dcb3a28eb92a6698.jpg)
サン・ジワンは伝説の人
「隠れキリシタン」と呼ばれた「昔キリシタン」「古キリシタン」は明治以後も独自の共同体を維持して、
自分たちの教えや儀式を守った。「組」あるいは「帳」と呼ばれる小組織に分かれ、それぞれに日繰り
やオラショを伝承する最高指導者の「帳方」、洗礼を授ける「水方」、連絡係の「触役」がいて、組織を
まとめてきた。葬儀なども自分たちで執り行ってきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/0d/f816d4df98925d1a6bf3bb29a7272f45.jpg)
高度成長期に変化の波が訪れた
若い人たちは仕事を求めて都会に出ていく。残った「昔キリシタン」「古キリシタン」は高齢化して、
だんだん人数が減っていく。「組」や「帳」が維持できなくなり、儀式も執り行えなくなる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/5a/5437193dfed1d05b8ed2a4af3e968727.jpg)
昭和40年代から戒名が
代々、洗礼名で葬られてきた「昔キリシタン」「古キリシタン」が独自に葬儀を維持できなくなってきて、
昭和40年代ぐらいから仏式を受け入れ始め、戒名がつけられるように。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/fb/5a361f751457f2363673f4d123d8490b.jpg)
パウロ以外みんな戒名
どうしてか、また墓地を歩き回っている。散歩をしていると、いつのまにか墓地に足を運んでしまう。
墓地は情報の宝箱だから、ということにしておこう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/60/1740bd83764f1390cff62ef5779872b8.jpg)
こちらは洗礼名で頑張る
ドメーゴス、シテーナ、カテリーナ、法妙梅枝来雲信女だけ戒名で、イサべり、サントメ―、マリヤ、
ルシーナ、カラシナ、ドメイゴスは洗礼名だ。よく見ると没年は昭和二十年代がほとんど。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/e0/1842ad9a268dda2a7a3828ef751e10d7.jpg)
教会よりも仏式のほうが寛容?
多くの「昔キリシタン」「古キリシタン」が仏式で葬られることを選んだのは、「隠れキリシタン」という
呼び方をしないで、教義に寛容なのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/fb/e32c6fda5b91f702a9b378513b6eb59a.jpg)
近くのカトリック黒崎教会
雑誌の取材にきた町で、空いた時間に神社や墓地をまわったけれど、ページに反映されることは
まったくなかった。
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