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歩くことが唯一の趣味ですから。

祈りの岩

2017-03-11 | Weblog
250年以上も幕府に見つからないようにキリスト教を信仰していた、潜伏キリシタンの「祈りの岩」だ。
この大きな岩の下に、年に一度、復活祭前の「悲しみ節」の夜に潜伏キリシタンが集まって見張りを
立て、オラショを練習した。オラショとは「祈り」を意味するポルトガル語で、日本語に訳さないで伝承
してきた。「主の祈り」「アベ・マリヤ」「ケレド」「こんちりさんのりやく」「天地始之事」「ルソンのオラショ」
などがあるらしい。でも、日本語に訳した「主の祈り」をテープで聞いた。どう考えればいい……?


潜伏キリシタンの遺物(聖遺骨入れ)

マーチン・スコセッシが映画化した遠藤周作の『沈黙』の舞台が長崎のこのあたり。市街地から車で
40分~50分かかる。昭和40年ごろまでは、道が悪くて2時間かかったらしい。江戸時代には舟しか
移動手段がないから、潜伏キリシタンを取り締まる役人が舟で沖に現われると、陸に上がってくる前
にキリシタンである証拠品をさっと隠した。


海に張り出した崖を回ってくる

茅葺き屋根の家に住んでいたので、竹の筒に聖なる品を入れて屋根にズボッと差し込めばバレない。
そのまんま家で煮炊きするから竹の筒が煤けて黒くなる。こんなふうに黒くなる。


潜伏キリシタンの命を救った竹筒

潜伏している間にイメージが変容して、マリア像もだんだん天女っぽくなった。教えのほうもきっと、
少しずつ変化したのではないだろうか。『沈黙』にも書いてあるように。


天女みたいな聖母の像

明治になってカトリックの教会ができると、潜伏キリシタンの中には教会に通う人たちも出てきた。
しかし教会に通わないで、自分たちの教えを守る人たちも多かった。教会から「隠れキリシタン」と
呼ばれた彼らは、自分たちを「昔キリシタン」「古キリシタン」と呼んだ。


今では海でサーフィンする人も

祈りの岩のある山の奥には、「昔キリシタン」「古キリシタン」の神社があって、枯松神社という。
江戸の初めの日本人伝道師バスチャン(セバスチャンが訛った)の、さらに師であるサン・ジワン
を祀るキリシタン神社だ。


サン・ジワン枯松神社ともいう

拝殿の中にサン・ジワンの祠がある。というより、祠があるところに古キリシタンが社を建てたのだ。
どんな祠かというと、こんな祠だ。


サン・ジワンは伝説の人

「隠れキリシタン」と呼ばれた「昔キリシタン」「古キリシタン」は明治以後も独自の共同体を維持して、
自分たちの教えや儀式を守った。「組」あるいは「帳」と呼ばれる小組織に分かれ、それぞれに日繰り
やオラショを伝承する最高指導者の「帳方」、洗礼を授ける「水方」、連絡係の「触役」がいて、組織を
まとめてきた。葬儀なども自分たちで執り行ってきた。


高度成長期に変化の波が訪れた

若い人たちは仕事を求めて都会に出ていく。残った「昔キリシタン」「古キリシタン」は高齢化して、
だんだん人数が減っていく。「組」や「帳」が維持できなくなり、儀式も執り行えなくなる。


昭和40年代から戒名が

代々、洗礼名で葬られてきた「昔キリシタン」「古キリシタン」が独自に葬儀を維持できなくなってきて、
昭和40年代ぐらいから仏式を受け入れ始め、戒名がつけられるように。


パウロ以外みんな戒名

どうしてか、また墓地を歩き回っている。散歩をしていると、いつのまにか墓地に足を運んでしまう。
墓地は情報の宝箱だから、ということにしておこう。


こちらは洗礼名で頑張る

ドメーゴス、シテーナ、カテリーナ、法妙梅枝来雲信女だけ戒名で、イサべり、サントメ―、マリヤ、
ルシーナ、カラシナ、ドメイゴスは洗礼名だ。よく見ると没年は昭和二十年代がほとんど。


教会よりも仏式のほうが寛容?

多くの「昔キリシタン」「古キリシタン」が仏式で葬られることを選んだのは、「隠れキリシタン」という
呼び方をしないで、教義に寛容なのかもしれない。


近くのカトリック黒崎教会

雑誌の取材にきた町で、空いた時間に神社や墓地をまわったけれど、ページに反映されることは
まったくなかった。

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